第29話 夏のなか、ちーちゃん(15)
朝。
夏期講習、三日目。
セミは、朝から本気で鳴いていた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
お母さんは、台所で洗い物。
お父さんは、昨夜遅くに出張から帰ってきたらしく、寝室のドアはまだ閉まったまま。
いつもの朝。
いつもの夏。
でも、今日は少し違う気がした。
歩きながら、ふと思う。
——慈恩さん、帰ってきた気がする。
昨日の夜、なんとなくわかった。
根拠はない。
でも、わたしはもう、慈恩さんの気配が少しわかるようになっているのかもしれない。
ちょっと、変な特技だ。
夏期講習が終わったのは、お昼前だった。
特別棟の階段を降りる。
「あっ、あの……!」
——きょうも、来た。
例の男子。
「うん」
「あ、その、ですね……」
きょうも、話が始まらない。
「おーい!」
後ろから、別の男子の声。
「あ、ご、ごめん! また今度!」
そして、消える。
もう、慣れた。
小さく息を吐いて、校舎を出る。
太陽は、真上。
アスファルトが、白く光っていた。
——暑い。
NAKANOへ行こう。
そう思って歩き出した、その時。
「ちーちゃん」
声がした。
振り返る。
「あ、慈恩さん」
夏なのに、いつもの黒いスーツ。
黒い書類鞄。
糸目のまま、ふわっと立っている。
「ちょっと、お時間ありますか」
「あ、はい」
「これから、お兄さんと楽器屋さんへ行くんで。ちーちゃんも、来てもらえますか?」
「え、わたしもですか?」
「はい。立ち会いです」
「立ち会い?」
「まあ、ちょっと、めんどくさい案件なんですけど。ちーちゃんに見ててほしいんですよ」
よくわからない。
でも、慈恩さんが来てほしいと言うなら、行く。
「行きます」
「ありがとうございます」
慈恩さんは、糸目でにこっと笑った。
でも、いつものぐったりした感じじゃなかった。
少しだけ、目が鋭い。
本気だ。
そう感じた。
NAKANOで、翔太さんと合流した。
翔太さんは、珍しく襟付きのシャツを着ていた。
髪も、後ろで結んでいる。
——あ、ちょっと、ちゃんとしてる。
「ちーちゃん」
「こんにちは」
「来てくれて、ありがとう」
「いえ」
翔太さんの声は、少し震えていた。
緊張している。
たぶん、かなり。
慈恩さんが、いつもの調子で言う。
「お兄さん、緊張しなくていいですよ」
「は、はい」
「めんどくさい話は、ぼくが全部やりますんで」
「……はい」
「お兄さんは、隣に立っててください」
そして、わたしを見た。
「ちーちゃんも、ぼくの隣、お願いします」
「はい」
「ただ、見ていてください」
「……はい」
「今日のことは、たぶん、お兄さんが後で思い出せなくなるところがあります。怖かったこととか、悔しかったこととか、嬉しかったこととか。そういうのを、ちーちゃんに見ておいてほしいんです」
胸の奥が、少しだけ引き締まった。
ただの付き添いじゃない。
証人だ。
翔太さんが、自分を罰するのを終わらせる場所に、わたしも立つ。
「わかりました」
「ありがとうございます」
「じゃ、行きますか」
タクシーで、新宿の楽器屋街へ向かった。
車内で、翔太さんはずっと黙っていた。
両手を強く握りしめ、膝も小さく震えている。
——平気じゃない。
当然だ。
家族の思い出を手放した場所。
自分を罰する原因になった場所。
そこへ、もう一度戻る。
それだけで、十分きつい。
でも、それでも来た。
慈恩さんと一緒なら、向き合えると思ったんだ。
慈恩さんは、窓の外を眺めていた。
無駄なことを、ほとんど話さない。
——あ。
これ、剣道の試合前と同じだ。
本気の時ほど、人は静かになる。
身体の芯だけが、研ぎ澄まされていく。
——慈恩さん、いま、完全に戦闘モードだ。
楽器屋街に着いた。
「降りますかね」
慈恩さんが、笑う。
翔太さんが、小さく息を吐いた。
「慈恩さん。俺、すごい緊張してます」
「大丈夫ですよ。サクッと終わらせますから」
そう言ってから、慈恩さんは、わたしを見た。
「ちーちゃん、何があっても、ぼくの隣にいてください」
「はい」
「ぼく、ちょっと目つき悪くなるかもしれないですけど、怖がらないでください」
——あ。
本当に、目を開ける気だ。
わたしも、小さく頷いた。
そして三人で、店のガラス扉を押した。
店の中には、ヴィンテージギターがびっしり並んでいた。
古い木材の匂い。
金属弦の乾いた匂い。
アンプの熱。
汗。
埃。
独特の空気。
壁には、「伝説のギタリスト使用」みたいな札が、いくつも貼られていた。
——なんか、嘘っぽい。
物語だけを高く売っている店。
そんな感じがした。
カウンターの奥に、店主がいた。
五十代くらい。
太い眉。
無精髭。
人を値踏みする目。
「いらっしゃい」
ぶっきらぼうな声。
そして、わたしたちを見るなり、
「本物ですよ」
聞いてもいないのに、そう言った。
——あ。
自分で本物って先に言う人、ちょっと怪しい。
慈恩さんが、にこっと笑う。
「こんにちは。ちょっと、お聞きしたいことがありまして」
「あぁ?」
店主の声色が変わった。
慈恩さんは、そのまま続ける。
「先日、お兄さんがギターを持って来ましたよね」
「……」
「ギブソンES-150。一九三九年製」
その瞬間。
店主の目が、ぴくっと動いた。
「……あー」
「三万円で、買い取りましたよね」
沈黙。
店主は、視線を逸らした。
「お客さん、何なんだ?」
「そのギター、返してほしいんですよ」
「は?」
「お兄さん、買い戻したいそうなんで」
店主が、鼻で笑う。
「一回売ったもんだろ」
「はい。だから、買い戻すんです」
「いくらで?」
「市場価格で」
空気が、少し変わった。
慈恩さんは、静かに続ける。
「ES-150、一九三九年。チャーリー・クリスチャンPU搭載。保存状態、良好」
「……」
「世界に、五十本も残ってませんよ」
「……」
「市場価格、二百万前後ですね」
店主の顔から、笑みが消えた。
「……詳しいな」
「まあ、それなりに」
「で? それを俺が手放すと、思うのか?」
「戻してもらいます」
空気が、止まった。
店の奥のアンプから、小さくハム音が鳴る。
ぶぅぅぅん。
店主が、顔を上げた。
「……なんだ?」
音は、さらに大きくなる。
低く。
深く。
床が、微かに震えた。
「電源、入ってねぇだろ……」
店主の声が、揺れた。
慈恩さんは、奥の棚を見つめたまま、ぽつりと言った。
「怒ってますね」
「は?」
「ギターたち」
——あ。
また、だ。
慈恩さん、話してる。
物に。
「長いこと、ここに閉じ込められてますから」
店主が、後ずさる。
「お、お前、何言って——」
「四代の思いが入ってるギターなんですよ」
慈恩さんの声が、少し低くなる。
「価値がわかっていて、悪態をついて、買い叩いた。怒りますよ、そりゃ」
アンプの低音が、さらに響いた。
ぼぉぉぉぉん。
店主の額に、汗が浮かぶ。
「最近、変な夢、見ません?」
店主の目が揺れた。
図星。
「やっぱり」
慈恩さんは笑った。
でも、目だけは笑っていない。
「返してあげれば、たぶん止まりますよ」
店主が、唾を飲み込む。
そして。
慈恩さんが、ゆっくり店主を見る。
糸目が、開く。
ぞくっ、とした。
獣みたいな目。
本気の目。
「あと、ひとつ」
静かな声。
「古物商の許可証、貼ってないですよね」
店主の顔が、強張った。
「……」
「中古ヴィンテージ扱うなら、必要ですよ」
「……」
「無許可営業、普通に犯罪です」
——わたし、わかった。
慈恩さん、この二日で全部調べていたんだ。
霊だとか、雰囲気だとか、そういうものだけじゃない。
法律。
相場。
逃げ道。
ぜんぶ。
「ぼく、警察呼ぶ気、ないですよ」
「……」
「めんどくさいんで」
「……」
「ただ、お兄さんにギター返してほしいだけです」
沈黙。
店主の呼吸だけが、聞こえた。
そして。
「……いくら、出す」
「五十万で、どうですか」
店主の目が、見開かれる。
慈恩さんは、書類鞄から紙袋を出した。
「現金、持ってきてます」
店主は、しばらく黙っていた。
それから、小さく舌打ちした。
「……待ってろ」
そう言って、奥へ消えた。




