第28話 夏のなか、ちーちゃん(14)
時間ができた時にも随時更新します!
ぜひお楽しみに!
それでは、本編をお楽しみください。
慈恩は、ふっと立ち上がると、奥の小さな流しへ向かった。
やかんが、静かな音を立てる。
急須に湯を落として、ゆっくり二人分のお茶を淹れた。
戻ってきて、翔太の前に湯呑みを置く。
「お兄さん、お茶、どうぞ」
「……ありがとうございます」
翔太は両手で受け取り、少し息を吹きかけてから、ひと口飲んだ。
熱かった。
でも、その熱さが、妙に落ち着いた。
慈恩も、自分の湯呑みを持ち上げる。
それから、静かに言った。
「上京した時の話、聞いてもいいですか?」
「……うん」
翔太は、もう一度お茶を飲んだ。
湯呑みを両手で包んだまま、ぽつりぽつりと話し始める。
「俺、高校出てから一年、地元でバイトしてたんだ。漁港の近くのコンビニ。夜勤で、月二十万くらい。半分は家に入れて、半分は貯金してた」
「ええ」
「兄ちゃんは、もう本格的に漁師やってて。家も、なんとか回ってた」
翔太は、小さく息を吐いた。
「で、二十歳になる前、お母さんに言ったんだ」
「……」
「俺、東京行きたい。歌、本気でやりたい、って」
部屋の外で、セミが鳴いている。
遠くで、車の走る音。
夏の夜の、生活の音。
「お母さん、しばらく黙ってた」
「ええ」
「で、最後に、こう言ったんだ。好きにしなさい。お母さんは止めない、って」
翔太の指先が、湯呑みに触れたまま止まった。
「でも、一つだけ約束して、って」
「……」
「じいちゃんと、ひいじいちゃんのギターだけは、絶対に手放さないで」
部屋の空気が、少し静かになる。
「何があっても、それだけは守って、って」
翔太は、かすかに笑った。
泣きそうな笑い方だった。
「俺、約束した」
「……」
「絶対、売らない。これだけは守る、って」
慈恩は、何も言わず、湯呑みを口元へ運ぶ。
翔太は続けた。
「で、東京に来た。ギター抱えて、新幹線乗って」
少しだけ、声が明るくなる。
「最初の三ヶ月は、楽しかったんだ。ライブハウス回って、オーディション受けて。ちょっとだけ、いい話も来てた」
「ええ」
「でも、ある時、レーベルの人に言われた」
翔太の声が、低くなる。
「お前、田舎くさいな、って」
「……」
「漁師の息子みたいな匂い、消せ。もっと軽くしろ。もっと都会っぽくしろ、って」
翔太は、苦く笑った。
「あと、そのギター、古臭いから買い替えろ、って」
慈恩の糸目が、ほんの少し細くなった。
「俺、その時、ほんと、殴りそうになった。でも、我慢して、考えます、って言って出た」
翔太は、自分の首元に触れた。
「その夜、酒飲んで、誰かとケンカして。この痣、できた。金なくて、漫喫に泊まって……そこから、全部、崩れた」
ぽつり。
ぽつり。
言葉が、落ちていく。
「家賃、滞納して。電気、止まって。水道、止まって。最後、部屋を追い出されそうになった」
「……」
「その時、思ったんだ」
翔太は、ゆっくり目を閉じた。
「歌、もう無理だ、って」
少しだけ、間が空いた。
「でも、ギターだけは売れなかった。お母さんとの約束があったから。じいさんとの約束もあったから」
翔太の声が、かすれる。
「四代続いたものを、俺で終わらせたくなかった」
慈恩は、黙って聞いている。
「でも、限界だった。二日、何も食ってなくて。来週には追い出されるって時に」
翔太の喉が、小さく鳴った。
「俺、ギター、売るしかなくなった」
部屋が、静かになる。
セミの声が、遠くに聞こえる。
「最初の店は、価値がわからないから無理。二件目は、扱えない。で、三件目」
翔太の声が、ゆっくり沈んだ。
「店主、ギター見た瞬間、目が変わったんだ」
「……」
「でも、すぐ悪態つき始めた。こんなボロ、売れるわけねえ。古臭い。臭い。邪魔だ。こんなゴミ、家に置いとけ、って」
「……」
「俺、わかったんだ。この人、価値わかってるって。わかってて、安く買い叩こうとしてるって」
「ええ」
「でも、もう頭が回らなかった。お願いします、って頭下げた」
翔太の目から、涙が落ちた。
ぽつり、と。
「そしたら、三万でいいなら引き取る。ありがたく思え、って」
声が、震える。
「俺、その瞬間、自分のこと、ほんと許せなかった」
「……」
「価値、知ってたのに売った。悪態を聞きながら売った。お母さんとの約束を破った。じいさんとの約束も破った」
翔太は、両手で湯呑みを握りしめる。
「ひいじいさんも、親父も。家族の声、全部、三万で売った」
部屋が、静まり返る。
翔太は、かすれた声で続けた。
「店を出た時、自分の足音しか聞こえなかった」
「……」
「家族の声、もう聞こえなかった」
慈恩は、静かにお茶を飲んだ。
湯気の立つ茶の香りが、ゆっくり部屋に広がる。
そして、ぽつりと言った。
「そういうことだったんですね」
翔太は、顔を上げる。
慈恩は糸目のまま、穏やかに続けた。
「ぼく、お兄さんと初めて会った時、思ったんですよ」
「……」
「この人、自分で自分を罰してるな、って」
翔太の呼吸が止まる。
「歌をやめる、って罰なんですよね」
「……」
「歌が嫌いになったわけじゃない。歌えなくなったわけでもない。自分には、もう歌う資格がないって思ってるだけ」
翔太は、何も言えなかった。
慈恩は、小さく笑う。
「だって、お兄さん」
「……」
「鼻歌、出てるじゃないですか」
「あ……」
翔太は、そこで初めて、自分が最近ずっと無意識に鼻歌を歌っていたことを思い出した。
皿を洗う時。
店を閉める時。
ぼーっとしている時。
気づけば、メロディが口から漏れていた。
「ほんとに辞めた人って」
慈恩は、湯呑みを回しながら言う。
「辞めたって、何回も言わないんですよ」
「……」
「辞められないから、言うんです」
翔太は俯いた。
肩が、震えていた。
しばらくして。
慈恩が、ふっと口を開く。
「お兄さん」
「……はい」
「もし、あのギター、戻ってきたら」
翔太が、顔を上げた。
「また、弾けますか?」
「……え?」
「ぼく、出張中、ちょっと知り合いに連絡してたんです」
「……」
「あの店主、業界じゃ結構、評判悪いらしくて。お兄さんのギター、まだ店には出してないみたいですよ」
翔太の目が、ゆっくり見開かれる。
「高値で売るつもりなんでしょうね。ぼくの知り合いが、面白いギター入ってる、って教えてくれまして」
「……」
「だから」
慈恩は、にこっと笑った。
「明日、取り返しに行きましょうか」
「……え?」
「お兄さんのギター。買い戻してきます」
翔太が、完全に固まった。
「……え?」
「え?」
「え?」
慈恩は、けろっとしている。
「お金は、ぼくが立て替えます」
「いや、でも」
「貸しですけど」
「ええ……?」
「ちゃんと、歌で返してください」
翔太は、湯呑みを持ったまま震えていた。
「慈恩さん」
「はい」
「俺……歌って、いいの?」
慈恩は、少しだけ考える顔をしてから、肩をすくめた。
「歌ってもいいし、歌わなくてもいいですよ」
「……」
「それは、お兄さんが決めることです」
翔太は、何も言えなかった。
「でも、ギターが戻ってきたら」
慈恩は、やわらかく笑った。
「罰は、終わりますからね」
翔太の目から、また涙が溢れた。
「そのあとで。本当に歌をやめたいのか、まだ歌いたいのか。ゆっくり、自分で決めればいいんですよ」
翔太は、両手で顔を覆った。
「う、ぅ……っ」
「はい」
「慈恩さん……」
「はい」
「ありがとう、ございます……」
「どういたしまして」
翔太は、しばらく泣いていた。
慈恩は、何も急かさず、ただ静かにお茶を飲んでいた。
窓の外では、セミが鳴いている。
夏の夜は、ゆっくり深くなっていく。
明日。
翔太は、もう一度、あの店へ行く。
売ってしまった家族の声を、取り返しに。
う~ん。女の子の成長は早い。
最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。
notoやってます。
マガジンお仕事物
https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e
感想・ブックマークなど、いただけましたら、励みになります。




