第27話 夏のなか、ちーちゃん(17)
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「……待ってろ」
奥へ、消えた。
わたしは、大きく息を吐いた。
慈恩さんは、もう、いつもの糸目に戻っている。
「ちーちゃん、大丈夫でした?」
「……ちょっと、怖かったです」
「ですよね。ごめんなさい」
でも。
——ちょっと、かっこよかった。
それは、言わない。
絶対。
翔太さんは、隣で、目をこすっていた。
「慈恩さん」
「はい?」
「すごい」
「めんどくさいの、嫌いなだけですよ」
——違う。
この人、本気で人を守る時、すごい。
そう、思った。
やがて、店主が戻ってきた。
黒いハードケースを、抱えて。
——あ。
翔太さんの息が、止まる。
ケースが、カウンターに置かれた。
「確認するか」
「お兄さん、開けてください」
翔太さんが、震える手で、留め具を外す。
カチン。
カチン。
そして、ゆっくり蓋を開けた。
——あった。
古いサンバースト。
黒いピックアップ。
長い時間を生きた、木の艶。
翔太さんは、そっとギターを抱き上げた。
そして——胸に、抱きしめた。
ぎゅっと。
声は、出なかった。
でも、涙だけが、落ちていた。
ぽた、ぽた、と。
ギターのボディに。
わたしは、何も言えなかった。
慈恩さんも、何も言わなかった。
ただ、静かに見ていた。
しばらくして。
翔太さんが、小さく言った。
「……ありがとうございます」
「はい」
「五十万、必ず、返します」
「しっかり、稼いでください」
「……はい」
「歌で、返してくれたら、それで、いいんですよ」
翔太さんは、ゆっくり頷いた。
店を出ると、夏の光が、まぶしかった。
セミが、鳴いている。
翔太さんは、ハードケースを両手で抱えていた。
——もう絶対、離さないって、感じで。
夏は、まだ終わっていない。
でも——翔太さんの夏は。
いま、やっと、始まった気がした。
タクシーで、神宝町に戻った。
——きょうは、道場、休もう。
師範には、あとで連絡しよう。
きょうは、こっちに、立ち会わなきゃいけない気がする。
そんなことを思いながら、わたしは、慈恩さんの事務所までついて行った。
事務所の、奥の応接間。
翔太さんは、そっとハードケースをテーブルに置いた。
そして、静かに留め具を外す。
カチン。
カチン。
ふたが、開いた。
ギターが、そこにあった。
「……弾いても、いいですか」
「はい。もちろんですよ」
慈恩さんが、糸目で、頷いた。
翔太さんは、両手でギターを持ち上げた。
ゆっくり、肩にストラップをかける。
——立った。
——あ。
絵になる。
さっきまで、泣きそうな顔してた人なのに。
ギターを抱えた瞬間だけ、空気が、変わる。
——ほんとのミュージシャン、みたい。
翔太さんは、左手をネックに置いた。
右手で、そっと弦を撫でる。
ふっと、コードを押さえた。
ジャラーン。
——音が、鳴った。
——あ。
いい音。
古い木が、深く呼吸するみたいな音だった。
アンプには、繋いでない。
なのに、部屋の空気そのものが、ふわっと、震えた。
木の響き。
弦の振動。
長い年月、抱え込んだ音。
——四代分の時間が、鳴ってる。
翔太さんは、もう一度、コードを鳴らした。
ジャラーン。
そして、小さく呟いた。
「……聞こえる」
「へえ?」
「家族の声、聞こえる」
「ええ」
「……磯の匂い、する」
——え。
磯の匂い?
ここ、東京なのに。
でも、慈恩さんは、驚かなかった。
「よかったですね」
糸目で、にこっと笑っただけだった。
——たぶん。
翔太さんが感じてる匂いって、ほんとの潮風だけじゃ、ない。
漁から帰ってきた、お父さんの服の匂い。
縁側で、おじいさんがギターを弾いてた、夏の夜の匂い。
戦後の港町で、ひいじいさんが歌ってた、酒場の空気。
——ぜんぶ、このギターに、残ってる。
翔太さんだけに、わかる。
翔太さんの目から、涙が落ちた。
ぽた、ぽた、と、ギターのボディに、染みていく。
それでも、右手は、止まらなかった。
ジャラーン。
ジャラーン。
何個か、コードを繋げて。
そして。
「ふん、ふふん——」
鼻歌みたいに、歌い始めた。
最初は、小さなメロディだけ。
でも、だんだん、声になっていく。
低くて、太い声。
酔ってないのに、夜の海みたいな深さがある声。
——あ。
これだ。
最初の夜、聞いた声。
あの歌声が、戻ってきた。
事務所の空気が、ふっと、変わった。
さっきまでの緊張とか、汗とか、楽器屋の嫌な空気とか。
そういうのが、ぜんぶ、遠くなる。
翔太さんの声だけが、残った。
——わたし、これ、一生忘れない。
いま、この場にいること。
この瞬間を、見てること。
そう思いながら、わたしは、慈恩さんを見た。
慈恩さんは、糸目で、静かに笑っていた。
「よかったですね」
ぽつり、と言った。
——慈恩さん。
たぶん、最初から、わかってたんだ。
ギターが戻ったら、翔太さんは、また歌うって。
だから、動いた。
——でも、それって、計算だけじゃ、ない。
——なんていうか。
この人、人を生き返らせるのが、好きなんだ。
そう、思った。
翔太さんは、しばらく、歌っていた。
歌詞は、まだ、ない。
でも、ちゃんと、歌だった。
そして、ふっと、演奏を止めた。
「慈恩さん」
「はい」
「……歌詞、書いて、いいですか」
「いいですよ」
「俺、また、書きたい」
「はい」
「歌、また、やりたい」
「ええ、どうぞ」
翔太さんは、ギターを抱えたまま、慈恩さんを見た。
「俺、変わります」
「いいですよ、ご自由に」
「……いや」
翔太さんは、ゆっくり首を振った。
「変わるんじゃ、なくて」
「ええ」
「戻ります」
「ええ」
「もとの、俺に」
「ええ」
「四代の声を、ちゃんと次に繋ぐ、俺に」
慈恩さんは、糸目で、にこっと笑った。
「それ、いいですね」
「うん」
「ぼく、待ってましたよ」
「……ありがとうございます」
「いえ」
——わたし、ちょっと、泣きそうだった。
胸の奥が、ぎゅうって、なってた。
でも、ここで泣くの、なんか違う気がして。
わたしは、ぐっと、堪えた。
すると、慈恩さんが、ふっと、こっちを見た。
「ちーちゃん」
「あ、はい」
「立ち会い、ありがとうございました」
「いえ」
「これで、お兄さん、ちゃんと、戻りましたから」
「……うん」
「これからも、たまに、見てあげてください」
「はい」
——慈恩さん、もう、いつもの糸目に戻ってる。
ぐったりした、いつもの感じ。
——でも、知ってる。
この人、本気になると、目、開ける。
あの目、一生忘れない。
そう思いながら、わたしは、小さく頷いた。
夜。
慈恩さんが、うちのおじいちゃんに、電話してくれた。
「おじいちゃん。ちーちゃん、夜まで預かりますんで」
「ええ、今日は、ちょっと、特別な夜なんで」
受話器の向こうから、おじいちゃんの笑う声が、聞こえた。
「ああ、慈恩くんが一緒なら、安心だ」
——おじいちゃん、ほんと、慈恩さんには、全幅の信頼だなあ。
そんなことを思いながら、わたしは、NAKANOの奥の席に座った。
その夜のNAKANOは、ちょっとした、パーティみたいになった。
中野のおじさんが、お酒を出して。
裕子さんが、料理を運んで。
美月ちゃんは、ソファで、すやすや眠っていた。
翔太さんは、ハードケースを椅子の横に置いて、静かに酒を飲んでいた。
慈恩さんは、いつもの席で、アースクエイクをちびちび舐めている。
「お兄さん」
慈恩さんが、ふっと言った。
「ギター、聞かせてくださいよ」
「あー……まだ、ちょっと、戻ったばっかなんで」
「いいから、いいから」
中野のおじさんが、笑った。
「慈恩、お前、最初から全部こうなるって、読んでただろ」
「いや、ぼく、めんどくさいの嫌いなんで、計算とか、しませんよ」
「嘘つけ」
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
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