第26話 夏のなか、ちーちゃん(16)
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奈良弁の兄ちゃん出ます。
第5章 —— 歌、また聴かせて
朝。
夏期講習、三日目。
セミは、朝から本気で鳴いていた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
お母さんは、台所で洗い物。
お父さんは、昨夜遅くに出張から帰ってきたらしく、寝室のドアは、まだ閉まったまま。
——きょうも、いつもの朝。
そう思いながら、玄関を出る。
でも、歩きながら、ふと思った。
慈恩さん、帰ってきた気がする。
昨日の夜、なんとなく、わかった。
——わたし、慈恩さんの気配が、わかるようになってるのかも。
ちょっと、変な特技だ。
そんなことを考えながら、神宝町のほうへ歩いた。
夏期講習が終わったのは、お昼前だった。
特別棟の階段を、降りる。
「あっ、あの……!」
——きょうも、来た。
例の男子。
「うん」
「あ、その、ですね……」
——きょうも、話が始まらない。
「おーい!」
後ろから、別の男子の声。
「あ、ご、ごめん! また今度!」
——そして、消える。
もう、慣れた。
小さく息を吐いて、校舎を出る。
太陽は、真上。
アスファルトが、白く光っている。
——暑い。
NAKANO行こう。
そう思って歩き出した、その時。
「ちーちゃん」
声がした。
振り返る。
「あ、慈恩さん」
夏なのに、いつもの黒いスーツ。
黒い書類鞄。
糸目のまま、ふわっと立っている。
「ちょっと、お時間、ありますか」
「あ、はい」
「これから、お兄さんと楽器屋さん、行くんで。ちーちゃんも、来てもらえますか?」
「え、わたしもですか?」
「はい。立ち会い、です」
「立ち会い?」
「まあ、ちょっと、めんどくさい案件なんですけど。ちーちゃんに、見ててほしいんですよ」
——よくわからない。
でも、慈恩さんが来てほしいって言うなら、行く。
「行きます」
「ありがとうございます」
慈恩さんは、糸目で、にこっと笑った。
でも。
——いつもの、ぐったりした感じじゃない。
少しだけ、目が鋭い。
本気だ。
そう、感じた。
NAKANOで、翔太さんと合流した。
翔太さんは、珍しく、襟付きのシャツを着ていた。
髪も、後ろで結んでいる。
——あ、ちょっと、ちゃんとしてる。
「ちーちゃん」
「こんにちは」
「来てくれて、ありがとう」
「いえ」
翔太さんの声は、少し震えていた。
緊張してる。
たぶん、かなり。
慈恩さんが、いつもの調子で言う。
「お兄さん、緊張しなくて、いいですよ」
「は、はい」
「めんどくさい話は、ぼくが全部やりますんで」
「……はい」
「お兄さんは、隣に立っててください」
そして、わたしを見た。
「ちーちゃんも、ぼくの隣、お願いします」
「はい」
「じゃ、行きますか」
タクシーで、新宿の楽器屋街へ向かった。
車内で、翔太さんは、ずっと黙っていた。
両手を強く握りしめ、膝も小さく震えている。
——平気じゃない。
当然だ。
家族の思い出を手放した場所。
自分を罰する原因になった場所。
そこへ、もう一度、戻る。
それだけで、十分、きつい。
でも——それでも、来た。
慈恩さんと一緒なら、向き合えるって、思ったんだ。
慈恩さんは、窓の外を眺めていた。
無駄なことを、ほとんど話さない。
——あ。
これ、剣道の試合前と、同じだ。
本気の時ほど、人は、静かになる。
身体の芯だけが、研ぎ澄まされていく。
——慈恩さん、いま、完全に戦闘モードだ。
楽器屋街に、着いた。
「降りますかね」
慈恩さんが、笑う。
翔太さんが、小さく息を吐いた。
「慈恩さん。俺、すごい、緊張してます」
「大丈夫ですよ。サクッと、終わらせますから」
そう言ってから、慈恩さんは、わたしを見た。
「ちーちゃん、何があっても、ぼくの隣にいてください」
「はい」
「ぼく、ちょっと目つき悪くなるかもしれないですけど、怖がらないでください」
——あ。
本当に、目、開ける気だ。
わたしも、小さく、頷いた。
そして三人で、店のガラス扉を押した。
店の中には、ヴィンテージギターがびっしり並んでいた。
古い木材の匂い。
金属弦の乾いた匂い。
アンプの熱。
汗。
埃。
独特の、空気。
壁には、"伝説のギタリスト使用"——そんな札が、いくつも貼られていた。
——なんか、嘘っぽい。
物語だけを高く売っている店。
そんな感じがした。
カウンターの奥に、店主がいた。
五十代くらい。
太い眉。
無精髭。
人を値踏みする、目。
「いらっしゃい」
ぶっきらぼうな声。
そして、わたしたちを見るなり、
「本物ですよ」
聞いてもいないのに、そう言った。
——あ。
自分で"本物"って先に言う人、ちょっと、怪しい。
慈恩さんが、にこっと笑う。
「こんにちは。ちょっと、お聞きしたいことが、ありまして」
「あぁ?」
店主の声色が、変わった。
慈恩さんは、そのまま続ける。
「先日、お兄さんが、ギター持って来ましたよね」
「……」
「ギブソンES-150。一九三九年製」
——その瞬間。
店主の目が、ぴくっと、動いた。
「……あー」
「三万円で、買い取りましたよね」
沈黙。
店主は、視線を逸らした。
「お客さん、何なんだ?」
「そのギター、返してほしいんですよ」
「は?」
「お兄さん、買い戻したいそうなんで」
店主が、鼻で笑う。
「一回売ったもんだろ」
「はい。だから、買い戻すんです」
「いくらで?」
「市場価格で」
空気が、少し変わった。
慈恩さんは、静かに続ける。
「ES-150、一九三九年。チャーリー・クリスチャンPU搭載。保存状態、良好」
「……」
「世界に、五十本も残ってませんよ」
「……」
「市場価格、二百万前後ですね」
店主の顔から、笑みが消えた。
「……詳しいな」
「まあ、それなりに」
「で? それを俺が手放すと、思うのか?」
「戻してもらいます」
——空気が、止まった。
店の奥のアンプから、小さくハム音が鳴る。
ぶぅぅぅん。
店主が、顔を上げた。
「……なんだ?」
音は、さらに大きくなる。
低く。
深く。
床が、微かに震えた。
「電源、入ってねぇだろ……」
店主の声が、揺れた。
慈恩さんは、奥の棚を見つめたまま、ぽつりと言った。
「怒ってますね」
「は?」
「ギターたち」
——あ。
また、だ。
慈恩さん、話してる。
物に。
「長いこと、ここに、閉じ込められてますから」
店主が、後ずさる。
「お、お前、何言って——」
「四代の思いが、入ってるギターなんですよ」
慈恩さんの声が、少し低くなる。
「価値わかってて、悪態ついて、買い叩いた。……怒りますよ、そりゃ」
アンプの低音が、さらに響いた。
ぼぉぉぉぉん。
店主の額に、汗が浮かぶ。
「最近、変な夢、見ません?」
——店主の目が、揺れた。
図星。
「やっぱり」
慈恩さんは、笑った。
でも——目だけ、笑ってない。
「返してあげれば、たぶん、止まりますよ」
店主が、唾を飲み込む。
そして。
慈恩さんが、ゆっくり店主を見る。
糸目が、開く。
——ぞくっ、とした。
獣みたいな目。
本気の目。
「あと、ひとつ」
静かな声。
「古物商の許可証、貼ってないですよね」
店主の顔が、強張った。
「……」
「中古ヴィンテージ扱うなら、必要ですよ」
「……」
「無許可営業、普通に、犯罪です」
——わたし、わかった。
慈恩さん、この二日で、全部調べてたんだ。
霊だとか、雰囲気だとか、そういうものだけじゃない。
法律。
相場。
逃げ道。
ぜんぶ。
「ぼく、警察呼ぶ気、ないですよ」
「……」
「めんどくさいんで」
「……」
「ただ、お兄さんにギター返してほしいだけです」
沈黙。
店主の呼吸だけが、聞こえた。
そして。
「……いくら、出す」
「五十万で、どうですか」
店主の目が、見開かれる。
慈恩さんは、書類鞄から、紙袋を出した。
「現金、持ってきてます」
店主は、しばらく黙っていた。
それから、小さく舌打ちして、
四代続く漁師の家に生まれ、
潮の匂いに名前を呼ばれながら、
ひとつの声を抱えて生きてきた男がいる——
Verse 1
磯の匂いが まだする夜に
月は濡れたまま 波へ落ちた
錆びた桟橋 軋む木影で
じいさん黙って ギターを置いた
潮の染みた 古いケース
開けば海鳴り こぼれ出す
木目の奥で 眠っていた
誰かの孤独が 指に触れた
Verse 2
ひいじいさん 戦を越えて
焼けた入江に 舟を浮かべた
骨まで潮に 削られながら
朝焼けだけを 信じて生きた
親父の背中は 冬の防波堤
何も言わずに 風を受けてた
誰もが 風のように
消えそうな火を 胸で守った
Chorus
磯の匂い まだする
錆びた弦から 夜が滲む
遠い港の 黒い波間で
帰れぬ声が 揺れている
磯の匂い まだする
この音の向こうに 家族の声
海より深く 沈んだものが
歌になるまで 鳴っている
Verse 3
東京の空は 薄いガラス
見上げるたびに 息が詰まる
ネオンの川に 溺れながら
名前を失くして 歩いていた
けれど不意に 風が吹けば
遠い港の 潮が混ざる
潮騒が 胸の奥で鳴る
帰る場所みたいに 鳴っている
Bridge
じいさんの手のひら 塩で裂けて
時代の痛みを 握っていた
「生きろ」とも 言わなかった
ただ黙って 煙を吐いた
沈む夕陽を 見送る声で
『おまえは おまえで、ええ』
そのひと言だけ
波みたいに 今も胸を叩く
Last Chorus
磯の匂い まだする
夜明け前の 防波堤で
弾いたコードに 滲んでいた
海へ帰れぬ 男たち
磯の匂い まだする
家族の声が 鳴っている
遠い時代も 遠い涙も
この歌の中で 生きている
Outro
ギターひとつで 波を刻む
凍るホームに 潮が吹く
港のブルース 夜明けまで
汽笛みたいに 声を落とす
誰も知らない 海の底で
消えなかった灯がある
それを人は 歌と呼ぶ
——家族の声、いまも、響いてる。




