第25話 夏のなか、ちーちゃん(15)
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第4章 ——兄ちゃんの過去【後編】
慈恩は、ふっと立ち上がると、奥の小さな流しへ向かった。
やかんが、静かな音を立てる。
急須に湯を落として、ゆっくり二人分のお茶を淹れた。
戻ってきて、翔太の前に、湯呑みを置く。
「お兄さん、お茶、どうぞ」
「……ありがとうございます」
翔太は両手で受け取り、少し息を吹きかけてから、ひと口飲んだ。
熱かった。
でも、その熱さが、妙に落ち着いた。
慈恩も、自分の湯呑みを持ち上げる。
それから、静かに言った。
「上京した時の話、聞いてもいいですか?」
「……うん」
翔太は、もう一度、お茶を飲んだ。
少し視線を落として、ぽつり、ぽつりと、話し始める。
「俺、高校出てから、一年、地元でバイトしてたんだ。漁港の近くのコンビニ。夜勤で、月二十万くらい。半分は家に入れて、半分は貯金してた」
「ええ」
「兄ちゃんは、もう本格的に漁師やってて。家も、なんとか回ってた。……で、二十歳になる前、お母さんに、言ったんだ」
翔太は、小さく息を吐いた。
「『俺、東京行きたい』『歌、本気でやりたい』って」
「……」
「お母さん、しばらく、黙ってた」
部屋の外で、セミが鳴いている。
遠くで、車の走る音。
夏の夜の、生活の音。
「で、最後に、こう言ったんだ。『好きにしなさい』『お母さんは、止めない』って」
「ええ」
「『でも、一つだけ、約束して』って」
翔太の指先が、湯呑みに触れたまま、止まった。
「『じいちゃんと、ひいじいちゃんのギターだけは、絶対に手放さないで』」
「……」
「『何があっても、それだけは、守って』って」
部屋の空気が、少し静かになる。
「俺、約束した」
翔太は、かすかに笑った。
泣きそうな、笑い方だった。
「『絶対、売らない』『これだけは、守る』って」
慈恩は、何も言わず、湯呑みを口元へ運ぶ。
翔太は、続けた。
「で、東京、来た。ギター抱えて、新幹線乗って。……最初の三ヶ月は、楽しかったんだ。ライブハウス回って、オーディション受けて。ちょっとだけ、いい話も、来てた」
「ええ」
「でも、ある時、レーベルの人に、言われた」
翔太の声が、少し低くなる。
「『お前、田舎くさいな』『漁師の息子みたいな匂い、消せ』『もっと軽くしろ、もっと都会っぽくしろ』って。……あと」
翔太は、苦く、笑った。
「『そのギター、古臭いから、買い替えろ』って」
慈恩の糸目が、ほんの少し細くなった。
「俺、その時、ほんと、殴りそうになった。……でも、我慢して、『考えます』って言って、出た。その夜、酒飲んで、誰かとケンカして」
首元に、触れる。
「この痣、できた。金なくて、漫喫泊まって。……そこから、全部、崩れた」
ぽつり。
ぽつり。
言葉が、落ちていく。
「家賃、滞納して。電気、止まって。水道、止まって。……最後、部屋、追い出されそうになった」
「……」
「その時、思ったんだ」
翔太は、ゆっくり目を閉じた。
「『歌、もう無理だ』って。……でも、ギターだけは、売れなかった。お母さんとの約束、あったから。じいさんとの約束も、あったから。四代続いたもの、俺で、終わらせたく、なかった」
「……」
「でも、限界だった。二日、何も食ってなくて。来週には、追い出されるって時に」
翔太の喉が、小さく鳴った。
「俺、ギター、売るしか、なくなった」
慈恩は、黙って聞いている。
「最初の店は、『価値わからないから無理』。二件目は、『扱えない』。……で、三件目」
翔太の声が、ゆっくり沈んだ。
「店主、ギター見た瞬間、目、変わったんだ。……でも、すぐ、悪態つき始めた。『こんなボロ、売れるわけねえ』『古臭い』『臭い』『邪魔だ』『こんなゴミ、家に置いとけ』って」
「……」
「でも、俺、わかったんだ。この人、価値、わかってるって。わかってて、安く、買い叩こうとしてる」
「ええ」
「でも、俺、もう、頭回らなくて。『お願いします』って、頭、下げた。……そしたら、『三万でいいなら引き取る』『ありがたく思え』って」
翔太の目から、涙が落ちた。
ぽつり、と。
「俺、その瞬間」
声が、震える。
「自分のこと、ほんと、許せなかった。価値、知ってたのに、売った。悪態、聞きながら、売った。……お母さんとの約束、破った。じいさんとの約束も、破った。ひいじいさんも、親父も。家族の声、全部、三万で、売った」
部屋が、静まり返る。
セミの声だけが、遠くに響いていた。
翔太は、かすれた声で、続けた。
「店を出た時、自分の足音しか、聞こえなかった。……家族の声、もう、聞こえなかった」
慈恩は、静かにお茶を飲んだ。
氷じゃなく、湯気の立つ茶の香りが、ゆっくり部屋に広がる。
そして、ぽつりと、言った。
「……そういうこと、だったんですね」
翔太は、顔を上げる。
慈恩は糸目のまま、穏やかに続けた。
「ぼく、お兄さんと初めて会った時、思ったんですよ。……この人、自分で自分を、罰してるな、って」
翔太の呼吸が、止まる。
「『歌、やめる』って、罰なんですよね。……歌が嫌いになったわけじゃない。歌えなくなったわけでもない。自分には、もう歌う資格がない、って、思ってるだけ」
翔太は、何も言えなかった。
慈恩は、小さく笑う。
「だって、お兄さん。……鼻歌、出てるじゃないですか」
「あ……」
翔太は、そこで初めて、自分が最近ずっと、無意識に鼻歌を歌っていたことを、思い出した。
皿を洗う時。
店を閉める時。
ぼーっとしてる時。
気づけば、メロディが、口から、漏れていた。
「ほんとに辞めた人って」
慈恩は、湯呑みを回しながら、言う。
「『辞めた』って、何回も、言わないんですよ。……辞められないから、言うんです」
翔太は、俯いた。
肩が、震えていた。
しばらくして。
慈恩が、ふっと口を開く。
「お兄さん」
「……はい」
「もし、あのギター、戻ってきたら」
翔太が、顔を上げた。
「また、弾けますか?」
「……え?」
「ぼく、出張中、ちょっと、知り合いに連絡してたんです。……あの店主、業界じゃ結構、評判悪いらしくて。お兄さんのギター、まだ店に、出してないみたいですよ」
翔太の目が、ゆっくり見開かれる。
「高値で売るつもり、なんでしょうね。……で、ぼくの知り合いが、『面白いギター入ってる』って、教えてくれまして」
「……」
「だから」
慈恩は、にこっと笑った。
「明日、取り返しに、行きましょうか」
「……え?」
「お兄さんのギター。買い戻して、きます」
翔太が、完全に固まった。
「……え?」
「え?」
「え?」
慈恩は、けろっと、している。
「お金は、ぼくが立て替えます」
「いや、でも」
「貸し、ですけど」
「ええ……?」
「ちゃんと、歌で、返してください」
翔太は、湯呑みを持ったまま、震えていた。
「慈恩さん」
「はい」
「俺……歌って、いいの?」
慈恩は、少しだけ考える顔をしてから、肩をすくめた。
「歌ってもいいし、歌わなくても、いいですよ。……それ、お兄さんが、決めることです」
「……」
「でも、ギター戻ってきたら」
慈恩は、やわらかく笑った。
「罰、終わりますからね」
翔太の目から、また、涙が溢れた。
「そのあとで。……ほんとに歌やめたいのか、まだ歌いたいのか。ゆっくり、自分で、決めればいいんですよ」
翔太は、両手で顔を覆った。
「う、ぅ……っ」
「はい」
「慈恩さん……」
「はい」
「ありがとう、ございます……」
「どういたしまして」
翔太は、しばらく、泣いていた。
慈恩は、何も急かさず、ただ静かに、お茶を飲んでいた。
窓の外では、セミが鳴いている。
夏の夜は、ゆっくりと、深くなっていった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
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