第24話 夏のなか、ちーちゃん(14)
——人ひとり、生き返るのに、二週間。
慈恩は、グラスを傾ける。
氷が、静かに鳴った。
「……お兄さん」
「はい?」
「ちょっと、相談、いいですか」
その瞬間。
慈恩の糸目が、わずかに開いた。
翔太の手が、止まる。
いつもの眠たげな目じゃない。
本気の目だった。
翔太は、無意識に息を呑む。
「お兄さんの地元のこと。お父さんのこと。おじいさんのこと」
「……」
「そろそろ、聞かせてもらえませんか」
店の空気が、少しだけ静かになる。
翔太は、視線を落とした。
「……俺、話すこと、多いですよ」
「ええ」
「どこから話せばいいか、わかんない」
「話したいところから、でいいですよ」
「……なんで、今、それ聞くんですか」
慈恩は、ふっと笑った。
「鼻歌、出てるからです」
「え?」
「それ、お兄さんの曲ですよね」
翔太は、そこで初めて、気づいた顔をした。
「あ……」
「自分で作ったメロディ、無意識で、歌ってますよ」
「……」
「お兄さん、もう、歌、戻り始めてるんです」
翔太は、黙った。
それから、小さく笑う。
困ったみたいに。
泣きそうみたいに。
「……ほんと、あんた、そういうの、見抜くな」
「仕事なんで」
「嫌な仕事」
「でしょうね」
少しの、沈黙。
やがて翔太は、皿を置いた。
「……わかった。話す」
「はい」
「場所、変えます?」
「ええ、事務所で、聞きましょうか。中野のおじさん、ちょっとお兄さん、借りますよ」
「おう、行ってこい」
そうして、二人は、店を出た。
神宝町は、夕方から夜へ変わる、途中だった。
慈恩の事務所、奥の応接間。
古い革張りのソファ。
小さな丸テーブル。
窓の外には、ビルの隙間と、群青色になり始めた空。
慈恩は、ソファに深くもたれた。
「飲み物、いります?」
「いや、大丈夫」
「そうですか」
少しの、沈黙。
外で、セミが鳴いている。
翔太は、視線を落としたまま、ゆっくり口を開いた。
「……俺の地元、漁港なんです。百年以上続いてる、港町で」
「ええ」
「曾じいさんは、流れ者だったらしい。もともと船員で、終戦後に流れ着いて、住み着いた。英語できたから、米兵相手に、通訳みたいなこともしてて……その時、ギターを、譲ってもらった」
「……ES-150ですか」
「うん」
翔太は、苦く、笑った。
「その頃は、そんな大層なもんだって、誰も知らなかったと思う。ただ、"外国の変わったギター"くらいで。……でも曾じいさん、毎晩それ弾いて、酒場で、歌ってたらしい」
慈恩は、黙って聞いていた。
「で、じいさんに渡って、親父に渡って……最後、俺に、来た」
翔太の声は、静かだった。
まるで、自分の中の古いアルバムを、一枚ずつ、開いていくみたいに。
「親父、漁師でした。昼は海に出て、夜は縁側でギター弾いてた。……俺、その音、なんとなく、覚えてるんです。六歳くらいまで。寝る前に、遠くで鳴ってる感じで」
翔太は、少し、笑った。
「たぶん、もう、美化してる。断片しか覚えてないから。……でも、その断片だけ、ずっと、残ってる」
慈恩は、何も言わない。
急かさない。
ただ、待つ。
「親父、海で死んだんです。俺が六歳の時。シケの日で。兄ちゃんが、九歳」
「……」
「その日のこと、細かくは覚えてない。でも、お袋が台所で泣いてたのだけ、覚えてる」
翔太の声が、少しだけ掠れた。
「声、出さないで、泣いてた。流し台に、掴まって。兄ちゃんも横にいたけど、何も言えなかった。……家の空気、全部、変わったんです」
外で、セミが鳴いていた。
夏の夜。
遠くで、救急車の音が、小さく流れる。
「兄ちゃんが、九歳で、漁師継ぐことになった。俺は、まだ何もわかってなくて。ギターは、納戸に、しまわれた。お袋、見るの、つらかったんだと思う」
「……でも俺、ときどき、見に行ってた。弾けないのに、触って。親父の音、残ってる気がして」
翔太は、一度、目を閉じた。
「小四の時かな。じいさんが、納戸からギター出してきて」
『これ、お前が弾け』
「そう、言われた。最初は、嫌でした。親父のもんを、自分が触るの、怖くて。……でも、じいさん、毎日コード教えてくれて。指、痛くて、泣いて。それでも毎日やってたら、弾けるようになって」
翔太は、少し、笑った。
「そしたら、じいさん、言ったんです」
『お前、親父より上手い』
「……絶対、嘘なのに。でも、じいさん、笑ってた」
『お前の親父が、お前くらいの歳の時より、上手い。すごいことだ』
翔太の目が、少し潤む。
「その時、初めて思った。……ああ、俺、親父と同じギター弾いてるんだ、って。繋がってるんだ、って」
慈恩は、静かに頷いた。
「中学上がる時、じいさんが、正式にギターを、くれた」
『これは、お前の親父が、お前に渡したかったもんだ。俺が、代わりに渡す』
「その夜、手入れの仕方、教えてくれて」
『耳で覚えろ。家族の声、聞こえるから』
翔太は、そこで、言葉を切った。
そして、ゆっくり息を吐く。
「……最後に、こう言ったんです」
『これで、四代揃った』
部屋が、静かになる。
セミの声だけが、遠くで響いていた。
「じいさん、その半年後に、死んだ。……俺、泣けなかった。親父の時も、じいさんの時も。泣いたら、本当に、いなくなる気がして」
翔太は、目をこすった。
「……いまでも、夢に出るんです。じいさん。笑ってる」
『これで、四代揃った』
「あの顔だけ、ずっと、残ってる」
慈恩は、何も言わなかった。
ただ、静かに翔太を見ていた。
夏の夜は、ゆっくり深くなっていった。
——ここまでは、まだ、序章だ。
慈恩は、糸目の奥で、静かに思った。
——この人が、いちばん話したくないのは。
きっと、ここから、先。
——東京で、何が、あったのか。
——中野直樹の視点(二〇〇一年・冬)
あの頃、俺はぐちゃぐちゃだった。
神宝町でバーをやろうとして、最初の店を潰した。
借金、二百万。
女房は妊娠中で、家に帰れない夜が続いた。
酒は飲んだ。
ケンカもした。
夜の街を、犬みたいに歩いた。
そんな夜の、四丁目の路地。
糸目の男に、声をかけられた。
「ちょっと、聞いていいですか」
二十二歳、くらいだろうか。
「あんた、バー、やりたいんでしょ」
「……は?」
「ぼく、ちょっと、空いてる物件、知ってるんですよ」
断った。
もう、人を信じる余裕、なかった。
でも、その男は毎日、同じ路地で待ってた。
一週間。
ある夜、俺は折れた。
「あんた、何が目的だ」
「いやはや、難儀なものでして」
「は?」
「あんたの店の近くに、ぼく、事務所を構えたいんで、便利なんですよ」
それだけ、だった。
あの男——慈恩は、俺に金を貸した。
二百万。
契約書、書いた。
いまの翔太と、同じ書類。
業務委託、と、金銭消費貸借。
取り分、おれ六、慈恩四。
「何で四なんだ」
「ぼく、こういうの、骨が折れるんで」
あの時も、そう、答えた。
◆◇
女房——裕子に、店の名前を相談した。
「あなたの名前、つければいいじゃない」
裕子は笑った。
俺は、店の看板を、自分の苗字で書いた。
NAKANO。
慈恩が、糸目で言った。
「いい名前、ですね」
「ふつうに、自分の名前だぞ」
「ふつうが、いいんですよ」
慈恩は、それから、毎日のように店に来た。
アースクエイクを、ちびちび、舐めるように飲んで。
俺の借金は、五年で返した。
貯金、できた頃。
慈恩は、ぽつりと言った。
「あの、中野さん」
「なんだ」
「いつか、誰か、ぼくが連れてきますから、ね」
「は?」
「あんたみたいに、ぐちゃぐちゃの夜の人、たぶん、いつか、連れてきます」
「……」
「その時、優しくしてあげてください」
慈恩は、糸目で笑った。
あれが、五年前。
◆◇
そして、今年の夏。
慈恩が、ボロボロのギター抱えた男を、店に連れてきた。
目の下に、隈。
首には、ケンカ跡の痣。
あの夜の、俺と、似ていた。
俺はすぐにわかった。
——ああ、あいつ、約束、守ったんだな。
◆◇
契約書にサインする時、俺の手は、震えなかった。
力強い字で書いた。
『中野 直樹』
翔太の人生が、これから始まる。
俺の時と、同じように。
四割の慈恩。
六割の本人。
慈恩の、いつものやり方。
あの男は、絶対、嘘をつかない。
俺が、いちばん、知っている。
◆◇
ちーちゃんが、カメラを構えていた。
十三歳。
ぐっとカメラを握る、その姿。
——あ。
俺は、また思った。
——慈恩、お前、ちーちゃんに何か見てるな。
あの糸目の男は、いつだって、人の中の何かを見抜く。
俺の中の、バーマスター。
翔太の中の、世界の歌い手。
そして——ちーちゃんの中の、何か。
◆◇
俺は、グラスを磨きながら、心の中で呟いた。
——慈恩。
——いつまで、続けるんだ、お前。
あの男は、たぶん答えない。
糸目でにこっと笑って、
「めんどくさいから、誰か、後継ぎ、欲しいんですよ」
とか言うんだろう。
俺はふっと笑った。
夏は、まだ終わらない。
翔太の歌も、ちーちゃんの夏も、慈恩の仕事も。
まだ、始まったばかりだった。




