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燃えカス人生、リペア中  作者: K3
歌う男は、死の淵を歩いた人
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第6章

 朝、目が覚めた。


 まだ夢の底に半分沈んでいるみたいな頭のまま、天井を見上げる。

 窓の外では、セミが朝から容赦なく鳴いていた。ミンミンミン、ジジジジジ——音の層が幾重にも重なって、白く焼けた空気そのものが震えているみたいだった。


 カーテンの隙間から差し込む光は、もう朝の色じゃない。

 真夏の太陽特有の、逃げ場をなくすような白い光。


 ——今日から、夏期講習。


 中三の夏。

 “受験生”っていう見えない札を首からぶら下げて歩く季節。


 うちの中学では、お盆前後の二週間、夏期講習がある。

 朝九時から昼前まで数学と英語。

 剣道部の人間にとっては、


 ——午前、勉強。

 ——午後、稽古。

 ——夜、宿題。


 気づけば一日が、雑に丸めた手ぬぐいみたいにぐしゃぐしゃになって終わる。


「行ってきます」


 洗面所の方から、水の流れる音。

 台所では、お母さんが皿を洗っていた。洗剤の匂いと、朝ごはんの残り香が混ざっている。


「いってらっしゃい」


 振り返らないまま返ってくる声。

 それが、うちの朝だった。


 玄関を開けた瞬間。


 ——熱っ。


 むわっとした空気が、顔に張りつく。

 焼けたアスファルトの匂い。湿った土の匂い。遠くのコンビニから漂う揚げ物の油の匂い。

 全部まとめて、夏が真正面からぶつかってくる。


 首筋を汗がひと筋流れた。

 制服のシャツが、背中にぺたりと貼りつく。


 学校まで徒歩十二分。

 たった十二分なのに、体力ゲージをじわじわ削られていく。


 しかも夏期講習の教室は、特別棟の四階だった。


 ——なんで夏休みに四階。

 ——せめて一階。

 ——いや地下でもいい。涼しいなら。


 階段を上がるたび、ローファーの底がぎし、と鳴る。

 踊り場の窓から差し込む光が、まるで熱湯みたいに白かった。


 教室にたどり着いた頃には、みんな半分溶けていた。

 机に突っ伏してる子。ハンディファンを顔面に当ててる子。ノートでぱたぱた仰いでる子。


 エアコンは頑張っている。

 でも、夏の本気の前ではちょっと頼りない。


 ——わかる。

 ——わたしも今、床に転がりたい。


 そこへ、数学の先生が入ってきた。


「はーい、夏期講習一日目です。寝るな、起きろ、解けー」


 先生の声が、眠気でぼやけた教室にバラバラと落ちる。

 五十過ぎの先生のシャツも、すでに背中が汗で濃くなっていた。


 ——先生も大変だな。


 ちょっとだけ同情しながら、配られた問題集を開く。


 連立方程式。

 二次方程式。

 確率。

 図形。


 ページをめくる音だけが、しばらく教室に広がった。


 ——あ、これ、全部わかる。


 鉛筆が止まらない。

 剣道の合間に解いてきた範囲だった。


 おじいちゃんは、ビルのオーナーだけど、勉強には妙に厳しい。


「数学は戦いだ」


 それが口癖。


「相手の駒を見て、自分の手を打つんだ」


 将棋盤を指で叩きながら、よくそんなことを言っていた。


 だから、わたしにとって数学は、ほとんど剣道だった。


 相手の癖を見る。

 無駄を削る。

 間合いを詰める。

 踏み込む。


 式を整理して、

 余計な数字を払い落として、

 答えまで最短距離で斬り込む。


 ——できた。

 ——次。

 ——これも。

 ——次。


 鉛筆の先だけが、紙の上を滑っていく。


「剣道部部長!」


 突然呼ばれて、顔を上げた。


「あ、はい」


「お前、もう終わったのか?」


「はい」


「全部?」


「はい」


「マジかよ」


 教室がざわつく。


 空気が少しだけこちらを見る。

 その瞬間、胸の奥で小さな針がちくっと動いた。


 ——あ。

 ——また、こっち向いた。


 わたしは、そういうのが少し苦手だった。


 剣道でもそう。

 勝つと、“鬼神”とか、“強すぎ”とか、“怖い”とか。


 別に、好きでそうなったわけじゃないのに。


「先生、次のプリントありますか?」


 なるべく普通の声で言う。


「あ、あるある。じゃあこれ解いてみろ」


 渡された応用問題。


 ——うわ。


 見たことはある。

 でも、ちゃんと向き合ったことはないタイプ。


 鉛筆の先が、ほんの一瞬だけ宙で止まる。


「えっと……」


 難しい。


 でも。


 ——面白い。


 頭の奥で、かち、と何か噛み合う音がした。


 自然と、口元が少し上がる。


 ——あ、これ。

 ——ちょっと強い相手だ。


 ページの向こうから、こちらを見返してくる感じ。


 わたしは椅子に座り直して、静かに問題へ踏み込んだ。


 お昼前。


 夏期講習が終わる。

 廊下には、一気に解放された空気が流れていた。


「あっ、あの……!」


 後ろから声。


 ——あ、来た。


 振り返ると、例の男子。

 顔を真っ赤にして、手にはくしゃっと折れた紙。


「えっと、その……ですね」


「うん」


「あ、あの……」


 制服の袖を何度も引っ張っている。

 喉の奥で言葉が渋滞してるみたいだった。


 ——慣れた。


 わたしは急かさず待つ。


「ぼく、その、夏休み……」


「うん」


 ——夏休みなのは知ってる。


「あの、もし、よかったら——」


「××ー!」


 後ろから飛んできた声。


「お前、何やってんだよー! 塾のこと聞きたかったんだろー?」


「あ、ああ、うん!」


「行くぞー!」


「あ、ご、ごめん! また今度!」


 男子は逃げるみたいに走っていった。


 ——きょうも消えた。


 廊下に残ったのは、汗の匂いと、遠ざかる足音だけ。


 ——結局、なんの話なんだろ。


 そんなことを考えながら、特別棟を出る。


 外は、真昼の太陽。


 コンクリートが白く反射して、目が痛い。

 セミの声が、さっきよりもっと近い。


 ——お昼か。


 熱気が腕にまとわりつく。


 ——今日、お母さんいないんだよね。

 ——お父さんも出張。

 ——ひとりご飯、やだな。


 その瞬間。


 ——あ、NAKANO行こう。


 思いついた、というより。

 気づけば足がそっちを向いていた。


 ガラスのドアを押す。


 からん、と涼しいベルの音。


 冷房の空気と、コーヒー豆の香ばしい匂いが一気に流れてきて、肺の奥がやっと息をついた。


「いらっしゃ——あ、ちーちゃん」


 裕子さんの声は、いつも少しだけ柔らかい。


「こんにちは、裕子さん」


「夏期講習終わった?」


「はい」


「お疲れさま」


 片手でコーヒーを運びながら、もう片方で抱っこ紐の美月を揺らしている。


 ——相変わらず、すごい。


「お昼、食べた?」


「あ、まだです」


「うちで食べていきなさい」


「ありがとうございます」


「冷やしうどん、あるわよー」


 ——読まれてる。


 たぶん裕子さんには、わたしが今どんな顔してるか、全部見えてる。


 奥のテーブル。


 ——あ、いる。


 翔太さんが、本を読んでいた。


 窓際の光が横顔に落ちて、長い髪の先だけ金色っぽく透けている。


「翔太さん、読書?」


「ん? あ、ちーちゃん」


 本から顔を上げて、少し照れたみたいに笑う。


「これ、ジオンさんに押し付けられて」


「押し付け?」


 表紙を見る。


 ——『日本の漁港、百年史』。


 ——ガチだ。


 思わず変な声が出そうになる。


 翔太さんは笑いながらページをめくった。


「俺の地元の漁港、載ってた」


「え?」


「曾じいさん、多分これ」


「えええ」


 古いモノクロ写真。

 色褪せた港。

 昔の海。


 翔太さんの指先が、写真の端をそっと撫でる。


 ——慣れたんだ。

 ——ここに。


 そう思った。


「うどん、はーい」


 冷たい器が置かれる。

 氷の当たる小さな音。


 出汁の匂いが、ふわっと立ちのぼった。


 そして。


 ——あ。


 気づけば、翔太さんと向かい合って座っている。


 四人席なのに、距離が近い。


 胸の奥で、小さく何かが跳ねた。

 水面に石を落とした時みたいに、波紋だけが広がる。


「夏期講習どう?」


「あ、まあ、普通です」


「普通」


「数学終わって、応用問題もらった」


「はえー」


 翔太さんは笑う。


「俺、数学だめだった」


「そうなんだ」


「九九まで、だいたい覚えた」


「九九まで?」


 ——この人、ちょっと心配になる。


 そんなことを思っていると。


 翔太さんが、ふっと目を伏せた。


「歌、やめるつもりだったのにな」


 その声だけ、少し静かだった。


 店内では氷の溶ける音。

 遠くで食器が触れ合う音。

 コーヒーミルの低い回転音。


 その全部の隙間に、翔太さんの言葉が沈んでいく。


 わたしは、うどんをすすった。


 冷たい麺が喉を通る。


 でも胸の奥だけ、なぜか少し熱かった。

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