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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
歌う男は、死の淵を歩いた人

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第17話 夏のなか、ちーちゃん(3)

時間ができた時にも随時更新します!


ぜひお楽しみに!


それでは、本編をお楽しみください。

 慈恩さんは、ただ、頷いていた。


 否定もしない。


 慰めもしない。


 「頑張れ」とも、「諦めるな」とも、言わない。


 ただ、アースクエイクをちびちび飲みながら、静かに相槌を打っている。


 おにいさんが、「うえぇぇ……」と声を漏らした。


 泣いていた。


 カウンターに、ぽた、ぽた、と涙が落ちる。


 中野のおじさんは、何も言わずに、新しいおしぼりを置いた。


 裕子さんが、わたしに、そっと顔を寄せる。


「ねえ、ちーちゃん。奥のテーブルで、ココア飲む?」


 小さい子に見せる空気じゃない、って思ったんだと思う。


 でも、わたしは、首を振った。


「ここでいいです」


 慈恩さんの、二つ隣に座る。


 そして、そのおにいさんを見た。


 歌、やめるんだ。


 なぜか、それが悲しかった。


 歌なんて、聞いたこともない。


 名前も、知らない。


 それなのに、「才能ない」って泣く姿が、胸の奥を、ぎゅっと、つねった。


 慈恩さんが、ちらっと、こっちを見た。


 そして、糸目のまま、にこっと笑う。


 ——え。


 なに、その顔。


 慈恩さんは、アースクエイクをまた少し舐めて、おにいさんに声をかけた。


「お兄さん。ちょっと、いいですか」


「……はいぃ」


「こちらの、ちーちゃんに。一曲、歌ってあげてくれませんか」


 ——え?


 わたしは、目を見開いた。


「は?」


 おにいさんが、顔を上げる。


「いや、急になに言ってるんですか、慈恩さん……」


「いや、めんどくさかったら、全然いいんですけど」


 慈恩さんは、相変わらずの糸目で、笑う。


「こちらのちーちゃん、剣道の大会、ずーっと勝ち続けてるんですよ。まあ、お祝い的な感じで」


「いや……それと、俺の歌に、なんの関係が……」


「だって」


 グラスを指先で揺らしながら、慈恩さんは言った。


「お兄さん、歌うたい、なんでしょう?」


 おにいさんは、黙った。


 さっきまで崩れてたのに、その一言のあとだけ、急に、静かになる。


「……でしたー」


 ぽつり、と言った。


「過去形で」


「過去形ですか」


「ええ……」


「じゃあ今は、普通のお兄さんですか?」


「ええ……ただの、普通の……無職です……」


「はい」


「夢、捨ててきました」


「はい」


 慈恩さんは、そこで、変に励ましたりしない。


 「そんなことない」とも、「まだ若いんだから」とも言わない。


 ただ、一回うなずいて。


「じゃあ、普通のお兄さんとして」


 さらっと、続けた。


「ちょっと一曲、歌うのは、可能ですか?」


 おにいさんが、じっと、慈恩さんを見る。


 慈恩さんは、糸目でにこにこしていた。


 逃がさない時の顔だ。


 カウンターの上で、氷が、からん、と鳴る。


 少し長い沈黙のあと。


 おにいさんは、小さく息を吐いて、


「……一曲だけ、なら」


 と、言った。


 ギターは、なかった。


 さっき「売った」と言っていたから、もう、ない。


 ——っていうか、ギターないのに、歌うの?


 アカペラ?


 バーで?


 ちょっと、不安になった。


 でも。


 ぐでんぐでんだったおにいさんは、ゆっくりカウンターに両手をついて、顔を上げた。


 一回、深く、息を吸う。


 それから、歌った。


 声が出た瞬間。


 わたしの胸の奥が、


 ——え。


 って、なった。


 夏の夜だった。


 冷房のぬるい風。


 焼き鳥と、お酒の匂い。


 なのに、その声が出た瞬間、店の空気が、ぜんぶ、塗り替わった。


 低い声。


 太いのに、どこか震えている声。


 泣きそうなのに、まっすぐ前へ出ていく声。


 英語だった。


 知らない歌だった。


 何を歌っているのか、わたしには、わからない。


 でも。


 分かった。


 これは、別れの歌だ。


 別れたくないのに、それでも、自分で別れると決めた人の、歌。


 そういう、声だった。


 胸の奥を、ぎゅう、と掴まれる。


 涙が、出そうになった。


 なんで。


 知らない歌なのに。


 知らない言葉なのに。


 うわ。


 それしか、出てこなかった。


 気づけば、中野のおじさんも、裕子さんも、皿を拭く手を止めていた。


 奥のサラリーマンまで、こっちを見ている。


 店の中で、誰も、動かない。


 慈恩さんだけが、糸目のまま、薄く笑っていた。


 そして、アースクエイクを、ちびちび飲んでいる。


 おにいさんは、だんだん、目を閉じていく。


 歌っているうちに、酔いが抜けていくみたいだった。


 さっきまで泣き崩れていた顔が、歌に引っ張られるみたいに、少しずつ、別人になっていく。


 歌、やめる、って。


 嘘でしょう。


 こんなの、やめられるわけがない。


 だって、これは、この人のいちばん深いところにあるものだ。


 なんで中学生のわたしに、そんなことが分かったのか、自分でも、わからない。


 でも、分かった。


 それだけは、確かだった。


 歌は、二分か三分くらいだったと思う。


 なのに、二時間くらい、長く感じた。


 最後の声が、店の天井に、ゆっくり、染み込んでいく。


 しん、と、静かになった。


 おにいさんは、ゆっくり、目を開けた。


 カウンターの空いたジョッキを見て、首をかしげる。


 それから、慈恩さんを見た。


「……あれ」


 少しだけ、素に戻った声で。


「俺、なんで歌ったんでしたっけ」


「ちーちゃんの、お祝いに」


「あ、そうでしたか……」


「うん」


「いや、でも俺、ぜんぜんダメで……」


「そうですか」


「もう、やめるんで」


「はい」


「歌、やめるんで」


「はい」


 慈恩さんは、糸目のまま、静かにうなずいていた。


 それから、ぽつり、と。


「まあ、たぶん、無理ですよ」


「……は?」


「お兄さん、たぶん、歌、やめられないですよ」


「いや、やめます」


 おにいさんは、少しむきになったみたいに言う。


「やめるんで」


「はい」


「絶対、やめるんで」


「はい」


 慈恩さんは、そこで、反論しなかった。


 ただ、グラスのアースクエイクを、飲み干す。


 氷が、からん、と小さく鳴った。


 それから、胸ポケットを探って、細い名刺を一枚、差し出した。


「あ、お兄さん。よかったら、これ」


「……は?」


「ぼくの名刺です」


「いや、でも……」


「あ、別に、捨ててもいいんですよ」


 慈恩さんは、いつもの気の抜けた声で、続ける。


「明日とか明後日とか。二日酔いで目ぇ覚まして、なんか、ちょっと、おかしいかもなって思ったら、連絡ください」


「……は?」


「来なくて、全然いいんです。ぼくも、わざわざ追いかけたりしないんで。めんどくさいし」


「……はい」


「もし来るなら。お兄さんが、自分で歩いて、来てください」


 その瞬間だった。


 慈恩さんが、ふっと、糸目を、少しだけ開いた。


 わたしは、思わず、息を止めた。


 いつも眠そうで、ぐにゃぐにゃで、力なんか入ってなさそうな人。


 なのに、その一瞬だけ。


 人、殺せる目だ。


 って、思った。


 理由は、わからない。


 でも、この人、本気で追うって決めたら。


 世界のどこにいる相手でも、見つけ出す。


 そんな目だった。


 開いた瞳だけ、獣みたいだった。


 おにいさんも、たぶん、その目を見た。


 一瞬、酔いが冷めたみたいな顔を、したから。


 でも、次の瞬間には。


 慈恩さんは、もう、いつもの糸目に戻っていた。


「にこ」


 って音がしそうな、ゆるい笑顔。


 おにいさんは、震える手で、名刺を受け取った。


 酔ってるはずなのに。


 なぜか、その手だけ、少し震えていた。


 それから。


「……名前、もういいですか」


「あ、はい」


「俺、三浦翔太って言います」


「はい、覚えます」


「業界だと、SHOって名乗ってます」


「SHOさんですね。覚えます」


 慈恩さんは、糸目で、うなずいた。


 でも、たぶん、その時。


 慈恩さんは、もう、その名前を忘れないって、決めたんだと思う。


 なぜか、わたしには、それが分かった。


 おにいさんは、そのあとまた、カウンターに突っ伏して、寝てしまった。


 名前を捨てると言っていた人が、最後に、自分の名前を置いて眠った。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。


notoやってます。

マガジンお仕事物

https://note.com/happy_duck8972/m/m87f735c2539e


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