第6話 歌、また聴かせて
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兄ちゃんの過去
朝。 夏期講習、三日目。
セミは、朝から本気で鳴いていた。
「行ってきます」
「いってらっしゃい」
お母さんは台所で洗い物をしていた。
お父さんは、昨夜遅くに出張から帰ってきたらしく、寝室のドアはまだ閉まったまま。
きょうも、いつもの朝。
そう思いながら、わたしは玄関を出た。
でも、歩きながら、ふと思う。
ジオンさん、帰ってきた気がする。
昨日の夜、なんとなく、わかった。
あ、わたし、ジオンさんの気配、わかるようになってるかも。
ちょっと変な特技。
そんなことを考えながら、神宝町のほうへ歩いた。
* * *
夏期講習が終わったのは、お昼前だった。
特別棟の階段を降りる。
「あっ、あの……!」
きょうも来た。
例の男子。
「うん」
「あ、その、ですね……」
きょうも、話が始まらない。
「おーい!」
後ろから別の男子の声。
「あ、ご、ごめん! また今度!」
そして消える。
もう慣れた。
わたしは小さく息を吐いて、校舎を出た。
太陽は真上。 アスファルトが白く光っている。
暑い。
NAKANO行こう。
そう思って歩き出した、その時。
「ちーちゃん」
声がした。
振り返る。
「あ、ジオンさん」
夏なのに、いつもの黒いスーツ。
黒い書類鞄。 糸目のまま、ふわっと立っている。
「ちょっとー、お時間ありますか」
「あ、はい」
「これから、お兄さんと楽器屋さん行くんで、ちーちゃんも来てもらえますかー?」
「え、わたしもですか?」
「はいはい。立ち会い、です」
「立ち会い?」
「まあ、ちょっと、めんどくさい案件なんですけどね。ちーちゃんに、見ててほしいんですよ」
よくわからない。
でも、ジオンさんが来てほしいって言うなら、行く。
「行きます」
「ありがとうございます」
ジオンさんは、糸目でにこっと笑った。
でも。
いつもの、ぐったりした感じじゃない。
少しだけ、目が鋭い。本気だそう感じた。
* * *
NAKANOで、翔太さんと合流した。
翔太さんは、珍しく襟付きのシャツを着ていた。
髪も後ろで結んでいる。
あ、ちょっとちゃんとしてる。
「ちーちゃん」
「こんにちは」
「来てくれて、ありがとう」
「いえ」
翔太さんの声は、少し震えていた。
緊張してる。 たぶん、かなり。
ジオンさんが、いつもの調子で言う。
「お兄さん、緊張しなくていいですよ」
「は、はい」
「めんどくさい話は、ぼくが全部やりますんで」
「……はい」
「お兄さんは、隣に立っててください」
そして、わたしを見た。
「ちーちゃんも、ぼくの隣、お願いしますね」
「はい」
「じゃ、行きますか」
* * *
タクシーで、新宿の楽器屋街へ向かった。
車内で、翔太さんはずっと黙っていた。
両手を強く握りしめ、膝も小さく震えている。
平気じゃない。
当然だ。
家族の思い出を手放した場所。
自分を罰する原因にもなった場所。
そこへ、もう一度戻る。
それだけで、十分きつい。
でも。
それでも来た。
ジオンさんと一緒なら、向き合えるって思ったんだ。
ジオンさんは、窓の外を眺めていた。
無駄なことを、ほとんど話さない。
あ。 これ、剣道の試合前と同じ。
本気の時ほど、人は静かになる。
身体の芯だけが、研ぎ澄まされていく。
ジオンさん、いま完全に戦闘モードだ。
* * *
楽器屋街に着いた。
「降りますかね」
ジオンさんが笑う。
翔太さんが、小さく息を吐いた。
「ジオンさん」
「はい?」
「俺、すごい緊張してます」
「大丈夫ですよ。サクッと終わらせますから」
そう言ってから、ジオンさんは、わたしを見た。
「ちーちゃん、何があっても、ぼくの隣にいてくださいね」
「はい」
「ぼく、ちょっと目つき悪くなるかもしれないですけど、怖がらないでください」
あ。
本気だ。
わたしも、小さく頷いた。
そして三人で、店のガラス扉を押した。
* * *
店の中には、ヴィンテージギターがびっしり並んでいた。
古い木材の匂い。 金属弦の乾いた匂い。 アンプの熱。 汗。 埃。
独特の空気。
壁には、
"伝説のギタリスト使用"
そんな札がいくつも貼られていた。
でも。
なんか、嘘っぽい。
物語だけを高く売っている店。
そんな感じがした。
カウンターの奥に、店主がいた。
五十代くらい。 太い眉。 無精髭。 人を値踏みする目。
「いらっしゃい」
ぶっきらぼうな声。
そして、わたしたちを見るなり、
「本物ですよ」
聞いてもいないのに、そう言った。
あ。
自分で"本物"って先に言う人、ちょっと怪しい。
ジオンさんが、にこっと笑う。
「こんにちはー。ちょっと、お聞きしたいことがありまして」
「あぁ?」
店主の声色が変わった。
ジオンさんは、そのまま続ける。
「先日、お兄さんが、ギター持って来ましたよね」
「……」
「ギブソンES-150。一九三九年製」
その瞬間。
店主の目が、ぴくっと動いた。
「……あ」
「三万円で買い取った、ね」
沈黙。
店主は視線を逸らした。
「お客さん、何なんだ?」
「そのギター、返してほしいんですよ」
「は?」
「お兄さん、買い戻したいそうなんで」
店主が鼻で笑う。
「一回売ったもんだろ」
「はい。だから、買い戻すんです」
「いくらで?」
「市場価格で」
空気が少し変わった。
ジオンさんは、静かに続ける。
「ES-150、一九三九年。チャーリー・クリスチャンPU搭載。保存状態良好」
「……」
「世界に、五十本も残ってませんよ」
「……」
「市場価格、二百万前後ですね」
店主の顔から、笑みが消えた。
「……詳しいな」
「まあ、それなりに」
「で? それを俺が手放すと思うのか?」
「戻してもらいます」
空気が止まった。
店の奥のアンプから、小さくハム音が鳴る。
ぶぅぅぅん。
店主が顔を上げた。
「……なんだ?」
音はさらに大きくなる。
低く。 深く。
床が微かに震える。
「電源、入ってねぇだろ……」
店主の声が揺れた。
ジオンさんは、奥の棚を見つめたまま、ぽつりと言った。
「怒ってますね」
「は?」
「ギターたち」
あ。
まただ。
ジオンさん、話してる。
物に。
「長いこと、ここに閉じ込められてますもんね」
店主が後ずさる。
「お、お前、何言って——」
「ひいじいさんと、おじいさん。お父さんの思いが乗ってるギターなんですよ」
ジオンさんの声が、少し低くなる。
「価値わかってて、悪態ついて、買い叩いた」
「……」
「怒りますよ、そりゃ」
アンプの低音が、さらに響いた。
ぼぉぉぉぉん。
店主の額に汗が浮かぶ。
「最近、変な夢、見ません?」
店主の目が揺れた。
図星。
「やっぱり」
ジオンさんは笑った。
でも。
目だけ、笑ってない。
「返してあげれば、たぶん止まりますよ」
店主が唾を飲み込む。
そして。
ジオンさんが、ゆっくり店主を見る。
糸目が、開く。
ぞくっ、とした。
獣みたいな目。
「あと、ひとつ」
静かな声。
「古物商の許可証、貼ってないですよね」
店主の顔が、強張った。
「……」
「中古ヴィンテージ扱うなら、必要ですよ」
「……」
「無許可営業、普通に犯罪です」
わたし、わかった。
ジオンさん、この二日で全部調べてたんだ。
霊だとか、雰囲気だとか、そういうものだけじゃない。
法律。 相場。 逃げ道。
全部。
「ぼく、警察呼ぶ気ないですよ」
「……」
「めんどくさいんで」
「……」
「ただ、お兄さんにギターを返してほしいだけなんです」
沈黙。
店主の呼吸だけが聞こえた。
そして。
「……いくら出す」
「五十でどうですか」
店主の目が見開かれる。
ジオンさんは、書類鞄から紙袋を出した。
「現金、持ってきてます」
店主は、しばらく黙っていた。
それから、小さく舌打ちして、
「……待ってろ」
奥へ消えた。
* * *
わたしは、大きく息を吐いた。
ジオンさんは、もういつもの糸目に戻っている。
「ちーちゃん、大丈夫でしたー?」
「……ちょっと怖かったです」
「ですよね。ごめんなさいね」
でも。
ちょっと、かっこよかった。
それは、言わない。
絶対。
翔太さんは、隣で目をこすっていた。
「ジオンさん」
「はい?」
「すごい」
「めんどくさいの嫌いなだけですよ」
違う。
この人、本気で人のために動く時はすごい。
そう思った。
* * *
やがて店主が戻ってきた。
黒いハードケースを抱えて。
あ。
翔太さんの息が止まる。
ケースが、カウンターに置かれた。
「確認するか」
「お兄さん、開けてください」
翔太さんが、震える手で留め具を外す。
カチン。 カチン。
そして、ゆっくり蓋を開けた。
あった。
古いサンバースト。 黒いピックアップ。 長い時間を生きた木の艶。
翔太さんは、そっとギターを抱き上げた。
そして。
胸に抱きしめた。
ぎゅっと。
声は出なかった。
でも、涙だけが落ちていた。
ぽた、ぽた、と。
ギターのボディに。
わたしは、何も言えなかった。
ジオンさんも、何も言わなかった。
ただ、静かに見ていた。
しばらくして。
翔太さんが、小さく言った。
「……ありがとうございます」
「はいはい」
「五十万、必ず返します」
「頑張って稼いでくださいね」
「……はい」
「歌で、ね」
翔太さんは、ゆっくり頷いた。
* * *
店を出ると、夏の光がまぶしかった。
セミが鳴いている。
翔太さんは、ハードケースを両手で抱えていた。
もう絶対、離さないって感じで。
夏は、まだ終わっていない。
でも。
翔太さんの夏は。 いま、やっと始まった気がした。
* * *
タクシーで、神宝町に戻った。
きょうは、道場、休もう。
師範には、あとで連絡しよう。
きょうは、こっちに、立ち会わなきゃいけない気がする。
そんなことを思いながら、わたしは、ジオンさんの事務所までついて行った。
事務所の奥の応接間。
翔太さんは、そっとハードケースをテーブルに置いた。
そして、静かに留め具を外す。
カチン。 カチン。
ふたが開いた。
ギターが、そこにあった。
「……弾いても、いいですか」
「はい、はい。もちろんですよ」
ジオンさんが、糸目で頷いた。
翔太さんは、両手でギターを持ち上げた。
ゆっくり、肩にストラップをかける。
立った。
あ。 絵になる。
さっきまで、泣きそうな顔してた人なのに。
ギターを抱えた瞬間だけ、空気が変わる。
ほんとのミュージシャン、みたい。
翔太さんは、左手をネックに置いた。
右手で、そっと弦を撫でる。
ふっと、コードを押さえた。
ジャラーン。
音が、鳴った。
あ。 いい音。
古い木が、深く呼吸するみたいな音だった。
アンプには繋いでない。 なのに、部屋の空気そのものが、ふわっと震えた。
木の響き。 弦の振動。 長い年月、抱え込んだ音。
ひいじいさんと、じいさんと、親父の時間が、鳴ってる。
翔太さんは、もう一度、コードを鳴らした。
ジャラーン。
そして、小さく呟いた。
「……聞こえる」
「へえ?」
「家族の声、聞こえる」
「ええ」
「……磯の匂い、する」
え。 磯の匂い? ここ、東京なのに。
でも、ジオンさんは、驚かなかった。
「よかったですね」
糸目で、にこっと笑っただけだった。
たぶん。 翔太さんが感じてる匂いって、ほんとの潮風だけじゃない。
漁から帰ってきた、お父さんの服の匂い。 縁側で、おじいさんがギターを弾いてた、夏の夜の匂い。 戦後の港町で、ひいじいさんが歌ってた酒場の空気。
ぜんぶ、このギターに、残ってる。
翔太さんだけにはわかる。
翔太さんの目から、涙が落ちた。
ぽた、ぽた、と、ギターのボディに染みていく。
それでも、右手は止まらなかった。
ジャラーン。 ジャラーン。
何個か、コードを繋げて。
そして。
「ふん、ふふん——」
鼻歌みたいに、歌い始めた。
最初は、小さなメロディだけ。 でも、だんだん、声になっていく。
低くて、太い声。 酔ってないのに、夜の海みたいな深さがある声。
あ。 これだ。
最初の夜に聞いた声。
あの歌声が、戻ってきた。
事務所の空気が、ふっと変わった。
さっきまでの緊張とか、汗とか、楽器屋の嫌な空気とか。
そういうのが、ぜんぶ、遠くなる。
翔太さんの声だけが、残った。
わたし、これ、一生忘れない。 いま、この場にいること。
この瞬間を見てること。
そう思いながら、わたしは、ジオンさんを見た。
ジオンさんは、糸目で、静かに笑っていた。
「よかったですね」
ぽつり、と言った。
ジオンさん。
たぶん、最初から、わかってたんだ。
ギターが戻ったら、翔太さんは、また歌うって。
だから、動いた。
でも、それって、計算だけじゃない。
なんていうか。
この人、人を生き返らせるのが、好きなんだ。
そう、思った。
翔太さんは、しばらく歌っていた。
歌詞は、まだない。 でも、ちゃんと、歌だった。
そして、ふっと演奏を止めた。
「ジオンさん」
「はい」
「……歌詞、書いていいですか」
「いいですよ」
「俺、また、書きたい」
「はい、はい」
「歌、また、やりたい」
「ええ、どうぞ」
翔太さんは、ギターを抱えたまま、ジオンさんを見た。
「俺、変わります」
「いいですよ、ご自由に」
「……いや」
翔太さんは、ゆっくり首を振った。
「変わるんじゃ、なくて」
「ええ」
「戻ります」
「ね」
「もとの俺に」
「ええ」
「ひいじいさんから繋がってきた声を、ちゃんと次に繋ぐ俺に」
ジオンさんは、糸目で、にこっと笑った。
「それ、いいですね」
「うん」
「ぼく、待ってましたよ」
「……ありがとうございます」
「いえいえ」
わたし、ちょっと、泣きそうだった。
胸の奥が、ぎゅうってなってた。
でも、ここで泣くの、なんか違う気がして。
わたしは、ぐっと堪えた。
すると、ジオンさんが、ふっとこっちを見た。
「ちーちゃん」
「あ、はい」
「立ち会い、ありがとうございました」
「いえ」
「これで、ね、お兄さん、ちゃんと戻りましたから」
「……うん」
「これからも、たまに見ててあげてくださいね」
「はい」
ジオンさん、もう、いつもの糸目に戻ってる。
ぐったりした、いつもの感じ。
でも、知ってる。
この人、本気になると、目、開ける。
あの目、一生忘れない。
そう思いながら、わたしは、小さく頷いた。
* * *
夜。
ジオンさんが、うちのおじいちゃんに電話してくれた。
「はじめさん。ちーちゃん、夜まで預かりますんで」
「ええ、今日は、ちょっと特別な夜なんで」
受話器の向こうから、おじいちゃんの笑う声が聞こえた。
「ああ、慈恩くんが一緒なら安心だ」
おじいちゃん、ほんと、ジオンさんには全幅の信頼だなあ。
そんなことを思いながら、わたしはNAKANOの奥の席に座った。
その夜のNAKANOは、ちょっとしたパーティみたいになった。
中野のおじさんが、お酒を出して。 裕子さんが、料理を運んで。 美月ちゃんは、ソファで、すやすや眠っていた。
翔太さんは、ハードケースを椅子の横に置いて、静かに酒を飲んでいた。
ジオンさんは、いつもの席で、アースクエイクをちびちび舐めている。
「ね、お兄さん」
ジオンさんが、ふっと言った。
「ギター、聞かせてくださいよ」
「あー……まだ、ちょっと、戻ったばっかなんで」
「いいから、いいから」
中野のおじさんが笑った。
「ジオン、お前、最初から全部こうなるって読んでただろ」
「いやいや。ぼく、めんどくさいの嫌いなんで、計算とかしませんよ」
「嘘つけ」
裕子さんが、くすっと笑う。
「あなた、めんどくさがりなのに、めんどくさいことばっかりするのよね」
「はいはい。人生最大の矛盾でーす」
このやり取り、なんか安心する。
そう思った時だった。
「あ、そういえば」
ジオンさんが、思い出したみたいに言った。
「お兄さん、あの店主に、『イカくせえギター』って言われたんでしたっけ」
「あー……うん」
「あれ、ね」
ジオンさんは、糸目で笑った。
「もしかしたら、本当に磯の匂い、感じてたのかもしれませんね」
「……え?」
「だって、漁港のギター、ですから」
店の空気が、一瞬止まった。
「いやいやいや」
中野のおじさんが吹き出した。
「ヴィンテージギターに、『イカくせえ』は普通言わねえだろ」
「ですよね」
ジオンさんが頷く。
「『ホコリくせえ』とかなら、わかるんですけどね」
「……たしかに」
翔太さんも、ちょっと笑った。
「『イカくせえ』って、かなり限定的ですよね」
「ええ。だから、ね」
ジオンさんは、アースクエイクをちびっと飲んだ。
「あの店主、ちょっと霊感でもある人なのかもしれませんね」
「ええええ」
わたし、思わず笑ってしまった。
「店主、は霊感持ち」
「ジオン、お前、勝手に霊能者増やすな」
「でも、夢、見てましたよ、あの人」
「うわ、やめろやめろ」
「これからは、磯の夕陽の夢、とかになると思います」
「なんだよ、その優しい呪い」
店の空気が、どっと笑いに包まれた。
でも。
ジオンさん、半分くらい、本気で言ってる気がする。
そう思った。
翔太さんは、笑いながらハードケースを開けた。
ギターを取り出して、肩にかける。
夜のNAKANOで。 ギターを抱えて立つ、その姿。
やっぱり、絵になる。
翔太さんは、静かにコードを鳴らした。
ジャラーン。
そして、歌い始める。
まだ歌詞のない、メロディだけの歌。
低くて、深い声。
夜の海みたいな歌。
でも、もう、悲しいだけの海じゃない。
朝焼けに向かう海の音だ。
中野のおじさんが、酒を飲む手を止めた。
裕子さんも、料理を運ぶ手を止めた。
お客さんたちも、自然と会話をやめる。
NAKANOの空気が、ふっと変わった。
最初の夜と、似てる。 でも、違う。
あの時の歌は、沈んでいく歌だった。
いまの歌は、戻ってくる歌だ。
翔太さんの声が、夏の夜に溶けていく。
ガラス越しに、ぬるい夜風。 遠くで、まだセミが鳴いている。
翔太さんの夏は、いま、本当に始まったんだ。
そう、思った。
ジオンさんは、糸目で静かに聞いていた。
その糸目の奥で。
ほんの少しだけ、何かが光った気がした。
でも、わたしは、見なかったふりをした。
この人は、たぶん、人前で感情を見せる人じゃない。
そう思ったから。
だから、わたしも黙って、翔太さんの歌を聞いていた。
セミの声。 グラスの氷の音。 古いギターの響き。
そして、夏の夜に伸びていく歌声。
歌、また聴かせて。 これから、何回でも。
そう、心の中で思った。
夏は、まだ終わらない。
翔太さんの歌も。 わたしの夏も。
まだ、始まったばかりだった。
ここまでお読みくださり、ありがとうございました。
次のお話で、またお会いできましたら幸いです。
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