表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃えカスの守り人  作者: K3
歌う男は、死の淵を歩いた人

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

18/23

第6話 歌、また聴かせて

お読みくださり、ありがとうございます。


最新話はカクヨムにて先行公開中

https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637

兄ちゃんの過去

 朝。 夏期講習、三日目。

 セミは、朝から本気で鳴いていた。

「行ってきます」

「いってらっしゃい」

 お母さんは台所で洗い物をしていた。

お父さんは、昨夜遅くに出張から帰ってきたらしく、寝室のドアはまだ閉まったまま。

  きょうも、いつもの朝。

 そう思いながら、わたしは玄関を出た。

 でも、歩きながら、ふと思う。

  ジオンさん、帰ってきた気がする。   

昨日の夜、なんとなく、わかった。   

あ、わたし、ジオンさんの気配、わかるようになってるかも。   

ちょっと変な特技。

 そんなことを考えながら、神宝町のほうへ歩いた。    

*   *   *

夏期講習が終わったのは、お昼前だった。

 特別棟の階段を降りる。

「あっ、あの……!」

  きょうも来た。

 例の男子。

「うん」

「あ、その、ですね……」

  きょうも、話が始まらない。

「おーい!」

 後ろから別の男子の声。

「あ、ご、ごめん! また今度!」

  そして消える。   

もう慣れた。

 わたしは小さく息を吐いて、校舎を出た。

 太陽は真上。 アスファルトが白く光っている。

  暑い。   

NAKANO行こう。

 そう思って歩き出した、その時。

「ちーちゃん」

 声がした。

 振り返る。

「あ、ジオンさん」

 夏なのに、いつもの黒いスーツ。

黒い書類鞄。 糸目のまま、ふわっと立っている。

「ちょっとー、お時間ありますか」

「あ、はい」

「これから、お兄さんと楽器屋さん行くんで、ちーちゃんも来てもらえますかー?」

「え、わたしもですか?」

「はいはい。立ち会い、です」

「立ち会い?」

「まあ、ちょっと、めんどくさい案件なんですけどね。ちーちゃんに、見ててほしいんですよ」

  よくわからない。   

でも、ジオンさんが来てほしいって言うなら、行く。

「行きます」

「ありがとうございます」

 ジオンさんは、糸目でにこっと笑った。

 でも。

  いつもの、ぐったりした感じじゃない。   

少しだけ、目が鋭い。本気だそう感じた。    

*   *   *

NAKANOで、翔太さんと合流した。

 翔太さんは、珍しく襟付きのシャツを着ていた。

髪も後ろで結んでいる。

  あ、ちょっとちゃんとしてる。

「ちーちゃん」

「こんにちは」

「来てくれて、ありがとう」

「いえ」

 翔太さんの声は、少し震えていた。

 緊張してる。 たぶん、かなり。

 ジオンさんが、いつもの調子で言う。

「お兄さん、緊張しなくていいですよ」

「は、はい」

「めんどくさい話は、ぼくが全部やりますんで」

「……はい」

「お兄さんは、隣に立っててください」

 そして、わたしを見た。

「ちーちゃんも、ぼくの隣、お願いしますね」

「はい」

「じゃ、行きますか」    

*   *   *

タクシーで、新宿の楽器屋街へ向かった。

 車内で、翔太さんはずっと黙っていた。

 両手を強く握りしめ、膝も小さく震えている。

  平気じゃない。   

当然だ。

 家族の思い出を手放した場所。

自分を罰する原因にもなった場所。

 そこへ、もう一度戻る。

 それだけで、十分きつい。

 でも。

  それでも来た。   

ジオンさんと一緒なら、向き合えるって思ったんだ。

 ジオンさんは、窓の外を眺めていた。

 無駄なことを、ほとんど話さない。

  あ。   これ、剣道の試合前と同じ。

 本気の時ほど、人は静かになる。

 身体の芯だけが、研ぎ澄まされていく。

  ジオンさん、いま完全に戦闘モードだ。    

*   *   *

楽器屋街に着いた。

「降りますかね」

 ジオンさんが笑う。

 翔太さんが、小さく息を吐いた。

「ジオンさん」

「はい?」

「俺、すごい緊張してます」

「大丈夫ですよ。サクッと終わらせますから」

 そう言ってから、ジオンさんは、わたしを見た。

「ちーちゃん、何があっても、ぼくの隣にいてくださいね」

「はい」

「ぼく、ちょっと目つき悪くなるかもしれないですけど、怖がらないでください」

  あ。   

本気だ。

 わたしも、小さく頷いた。

 そして三人で、店のガラス扉を押した。    

*   *   *

店の中には、ヴィンテージギターがびっしり並んでいた。

 古い木材の匂い。 金属弦の乾いた匂い。 アンプの熱。 汗。 埃。

 独特の空気。

 壁には、

  "伝説のギタリスト使用"

 そんな札がいくつも貼られていた。

 でも。

  なんか、嘘っぽい。

 物語だけを高く売っている店。

 そんな感じがした。

 カウンターの奥に、店主がいた。

 五十代くらい。 太い眉。 無精髭。 人を値踏みする目。

「いらっしゃい」

 ぶっきらぼうな声。

 そして、わたしたちを見るなり、

「本物ですよ」

 聞いてもいないのに、そう言った。

  あ。   

自分で"本物"って先に言う人、ちょっと怪しい。

 ジオンさんが、にこっと笑う。

「こんにちはー。ちょっと、お聞きしたいことがありまして」

「あぁ?」

 店主の声色が変わった。

 ジオンさんは、そのまま続ける。

「先日、お兄さんが、ギター持って来ましたよね」

「……」

「ギブソンES-150。一九三九年製」

  その瞬間。

 店主の目が、ぴくっと動いた。

「……あ」

「三万円で買い取った、ね」

 沈黙。

 店主は視線を逸らした。

「お客さん、何なんだ?」

「そのギター、返してほしいんですよ」

「は?」

「お兄さん、買い戻したいそうなんで」

 店主が鼻で笑う。

「一回売ったもんだろ」

「はい。だから、買い戻すんです」

「いくらで?」

「市場価格で」

 空気が少し変わった。

 ジオンさんは、静かに続ける。

「ES-150、一九三九年。チャーリー・クリスチャンPU搭載。保存状態良好」

「……」

「世界に、五十本も残ってませんよ」

「……」

「市場価格、二百万前後ですね」

 店主の顔から、笑みが消えた。

「……詳しいな」

「まあ、それなりに」

「で? それを俺が手放すと思うのか?」

「戻してもらいます」

  空気が止まった。

 店の奥のアンプから、小さくハム音が鳴る。

 ぶぅぅぅん。

 店主が顔を上げた。

「……なんだ?」

 音はさらに大きくなる。

 低く。 深く。

 床が微かに震える。

「電源、入ってねぇだろ……」

 店主の声が揺れた。

 ジオンさんは、奥の棚を見つめたまま、ぽつりと言った。

「怒ってますね」

「は?」

「ギターたち」

  あ。

  まただ。

 ジオンさん、話してる。

 物に。

「長いこと、ここに閉じ込められてますもんね」

 店主が後ずさる。

「お、お前、何言って——」

「ひいじいさんと、おじいさん。お父さんの思いが乗ってるギターなんですよ」

 ジオンさんの声が、少し低くなる。

「価値わかってて、悪態ついて、買い叩いた」

「……」

「怒りますよ、そりゃ」

 アンプの低音が、さらに響いた。

 ぼぉぉぉぉん。

 店主の額に汗が浮かぶ。

「最近、変な夢、見ません?」

  店主の目が揺れた。

 図星。

「やっぱり」

 ジオンさんは笑った。

 でも。

  目だけ、笑ってない。

「返してあげれば、たぶん止まりますよ」

 店主が唾を飲み込む。

 そして。

 ジオンさんが、ゆっくり店主を見る。

 糸目が、開く。

  ぞくっ、とした。

 獣みたいな目。

 「あと、ひとつ」

 静かな声。

「古物商の許可証、貼ってないですよね」

 店主の顔が、強張った。

「……」

「中古ヴィンテージ扱うなら、必要ですよ」

「……」

「無許可営業、普通に犯罪です」

  わたし、わかった。

  ジオンさん、この二日で全部調べてたんだ。

 霊だとか、雰囲気だとか、そういうものだけじゃない。

 法律。 相場。 逃げ道。

 全部。

「ぼく、警察呼ぶ気ないですよ」

「……」

「めんどくさいんで」

「……」

「ただ、お兄さんにギターを返してほしいだけなんです」

 沈黙。

 店主の呼吸だけが聞こえた。

 そして。

「……いくら出す」

「五十でどうですか」

 店主の目が見開かれる。

 ジオンさんは、書類鞄から紙袋を出した。

「現金、持ってきてます」

 店主は、しばらく黙っていた。

 それから、小さく舌打ちして、

「……待ってろ」

 奥へ消えた。    

*   *   *

わたしは、大きく息を吐いた。

 ジオンさんは、もういつもの糸目に戻っている。

「ちーちゃん、大丈夫でしたー?」

「……ちょっと怖かったです」

「ですよね。ごめんなさいね」

 でも。

  ちょっと、かっこよかった。

 それは、言わない。

 絶対。

 翔太さんは、隣で目をこすっていた。

「ジオンさん」

「はい?」

「すごい」

「めんどくさいの嫌いなだけですよ」

  違う。

  この人、本気で人のために動く時はすごい。

 そう思った。    

*   *   *

やがて店主が戻ってきた。

 黒いハードケースを抱えて。

  あ。

 翔太さんの息が止まる。

 ケースが、カウンターに置かれた。

「確認するか」

「お兄さん、開けてください」

 翔太さんが、震える手で留め具を外す。

 カチン。 カチン。

 そして、ゆっくり蓋を開けた。

  あった。

 古いサンバースト。 黒いピックアップ。 長い時間を生きた木の艶。

 翔太さんは、そっとギターを抱き上げた。

 そして。

 胸に抱きしめた。

 ぎゅっと。

 声は出なかった。

 でも、涙だけが落ちていた。

 ぽた、ぽた、と。

 ギターのボディに。

 わたしは、何も言えなかった。

 ジオンさんも、何も言わなかった。

 ただ、静かに見ていた。

 しばらくして。

 翔太さんが、小さく言った。

「……ありがとうございます」

「はいはい」

「五十万、必ず返します」

「頑張って稼いでくださいね」

「……はい」

「歌で、ね」

 翔太さんは、ゆっくり頷いた。    

*   *   *

店を出ると、夏の光がまぶしかった。

 セミが鳴いている。

 翔太さんは、ハードケースを両手で抱えていた。

  もう絶対、離さないって感じで。

 夏は、まだ終わっていない。

 でも。

  翔太さんの夏は。   いま、やっと始まった気がした。    

*   *   *

タクシーで、神宝町に戻った。

  きょうは、道場、休もう。   

師範には、あとで連絡しよう。   

きょうは、こっちに、立ち会わなきゃいけない気がする。

 そんなことを思いながら、わたしは、ジオンさんの事務所までついて行った。

 事務所の奥の応接間。

 翔太さんは、そっとハードケースをテーブルに置いた。

そして、静かに留め具を外す。

 カチン。 カチン。

 ふたが開いた。

 ギターが、そこにあった。

「……弾いても、いいですか」

「はい、はい。もちろんですよ」

 ジオンさんが、糸目で頷いた。

 翔太さんは、両手でギターを持ち上げた。

ゆっくり、肩にストラップをかける。

  立った。

  あ。   絵になる。

 さっきまで、泣きそうな顔してた人なのに。

ギターを抱えた瞬間だけ、空気が変わる。

  ほんとのミュージシャン、みたい。

 翔太さんは、左手をネックに置いた。

右手で、そっと弦を撫でる。

 ふっと、コードを押さえた。

 ジャラーン。

  音が、鳴った。

  あ。   いい音。

 古い木が、深く呼吸するみたいな音だった。

アンプには繋いでない。 なのに、部屋の空気そのものが、ふわっと震えた。

 木の響き。 弦の振動。 長い年月、抱え込んだ音。

  ひいじいさんと、じいさんと、親父の時間が、鳴ってる。

 翔太さんは、もう一度、コードを鳴らした。

 ジャラーン。

 そして、小さく呟いた。

「……聞こえる」

「へえ?」

「家族の声、聞こえる」

「ええ」

「……磯の匂い、する」

  え。   磯の匂い?   ここ、東京なのに。

 でも、ジオンさんは、驚かなかった。

「よかったですね」

 糸目で、にこっと笑っただけだった。

  たぶん。   翔太さんが感じてる匂いって、ほんとの潮風だけじゃない。

 漁から帰ってきた、お父さんの服の匂い。 縁側で、おじいさんがギターを弾いてた、夏の夜の匂い。 戦後の港町で、ひいじいさんが歌ってた酒場の空気。

  ぜんぶ、このギターに、残ってる。   

翔太さんだけにはわかる。

 翔太さんの目から、涙が落ちた。

 ぽた、ぽた、と、ギターのボディに染みていく。

 それでも、右手は止まらなかった。

 ジャラーン。 ジャラーン。

 何個か、コードを繋げて。

 そして。

「ふん、ふふん——」

 鼻歌みたいに、歌い始めた。

 最初は、小さなメロディだけ。 でも、だんだん、声になっていく。

 低くて、太い声。 酔ってないのに、夜の海みたいな深さがある声。

  あ。   これだ。   

最初の夜に聞いた声。

 あの歌声が、戻ってきた。

 事務所の空気が、ふっと変わった。

 さっきまでの緊張とか、汗とか、楽器屋の嫌な空気とか。

そういうのが、ぜんぶ、遠くなる。

 翔太さんの声だけが、残った。

  わたし、これ、一生忘れない。   いま、この場にいること。   

この瞬間を見てること。

 そう思いながら、わたしは、ジオンさんを見た。

 ジオンさんは、糸目で、静かに笑っていた。

「よかったですね」

 ぽつり、と言った。

  ジオンさん。   

たぶん、最初から、わかってたんだ。   

ギターが戻ったら、翔太さんは、また歌うって。   

だから、動いた。

  でも、それって、計算だけじゃない。

  なんていうか。   

この人、人を生き返らせるのが、好きなんだ。

 そう、思った。

 翔太さんは、しばらく歌っていた。

 歌詞は、まだない。 でも、ちゃんと、歌だった。

 そして、ふっと演奏を止めた。

「ジオンさん」

「はい」

「……歌詞、書いていいですか」

「いいですよ」

「俺、また、書きたい」

「はい、はい」

「歌、また、やりたい」

「ええ、どうぞ」

 翔太さんは、ギターを抱えたまま、ジオンさんを見た。

「俺、変わります」

「いいですよ、ご自由に」

「……いや」

 翔太さんは、ゆっくり首を振った。

「変わるんじゃ、なくて」

「ええ」

「戻ります」

「ね」

「もとの俺に」

「ええ」

「ひいじいさんから繋がってきた声を、ちゃんと次に繋ぐ俺に」

 ジオンさんは、糸目で、にこっと笑った。

「それ、いいですね」

「うん」

「ぼく、待ってましたよ」

「……ありがとうございます」

「いえいえ」

  わたし、ちょっと、泣きそうだった。

 胸の奥が、ぎゅうってなってた。

 でも、ここで泣くの、なんか違う気がして。

 わたしは、ぐっと堪えた。

 すると、ジオンさんが、ふっとこっちを見た。

「ちーちゃん」

「あ、はい」

「立ち会い、ありがとうございました」

「いえ」

「これで、ね、お兄さん、ちゃんと戻りましたから」

「……うん」

「これからも、たまに見ててあげてくださいね」

「はい」

  ジオンさん、もう、いつもの糸目に戻ってる。   

ぐったりした、いつもの感じ。

  でも、知ってる。   

この人、本気になると、目、開ける。   

あの目、一生忘れない。

 そう思いながら、わたしは、小さく頷いた。    

*   *   *

夜。

 ジオンさんが、うちのおじいちゃんに電話してくれた。

「はじめさん。ちーちゃん、夜まで預かりますんで」

「ええ、今日は、ちょっと特別な夜なんで」

 受話器の向こうから、おじいちゃんの笑う声が聞こえた。

「ああ、慈恩くんが一緒なら安心だ」

  おじいちゃん、ほんと、ジオンさんには全幅の信頼だなあ。

 そんなことを思いながら、わたしはNAKANOの奥の席に座った。

 その夜のNAKANOは、ちょっとしたパーティみたいになった。

 中野のおじさんが、お酒を出して。 裕子さんが、料理を運んで。 美月ちゃんは、ソファで、すやすや眠っていた。

 翔太さんは、ハードケースを椅子の横に置いて、静かに酒を飲んでいた。

 ジオンさんは、いつもの席で、アースクエイクをちびちび舐めている。

「ね、お兄さん」

 ジオンさんが、ふっと言った。

「ギター、聞かせてくださいよ」

「あー……まだ、ちょっと、戻ったばっかなんで」

「いいから、いいから」

 中野のおじさんが笑った。

「ジオン、お前、最初から全部こうなるって読んでただろ」

「いやいや。ぼく、めんどくさいの嫌いなんで、計算とかしませんよ」

「嘘つけ」

 裕子さんが、くすっと笑う。

「あなた、めんどくさがりなのに、めんどくさいことばっかりするのよね」

「はいはい。人生最大の矛盾でーす」

  このやり取り、なんか安心する。

 そう思った時だった。

「あ、そういえば」

 ジオンさんが、思い出したみたいに言った。

「お兄さん、あの店主に、『イカくせえギター』って言われたんでしたっけ」

「あー……うん」

「あれ、ね」

 ジオンさんは、糸目で笑った。

「もしかしたら、本当に磯の匂い、感じてたのかもしれませんね」

「……え?」

「だって、漁港のギター、ですから」

 店の空気が、一瞬止まった。

「いやいやいや」

 中野のおじさんが吹き出した。

「ヴィンテージギターに、『イカくせえ』は普通言わねえだろ」

「ですよね」

 ジオンさんが頷く。

「『ホコリくせえ』とかなら、わかるんですけどね」

「……たしかに」

 翔太さんも、ちょっと笑った。

「『イカくせえ』って、かなり限定的ですよね」

「ええ。だから、ね」

 ジオンさんは、アースクエイクをちびっと飲んだ。

「あの店主、ちょっと霊感でもある人なのかもしれませんね」

「ええええ」

 わたし、思わず笑ってしまった。

「店主、は霊感持ち」

「ジオン、お前、勝手に霊能者増やすな」

「でも、夢、見てましたよ、あの人」

「うわ、やめろやめろ」

「これからは、磯の夕陽の夢、とかになると思います」

「なんだよ、その優しい呪い」

 店の空気が、どっと笑いに包まれた。

  でも。   

ジオンさん、半分くらい、本気で言ってる気がする。

 そう思った。

 翔太さんは、笑いながらハードケースを開けた。

 ギターを取り出して、肩にかける。

 夜のNAKANOで。 ギターを抱えて立つ、その姿。

  やっぱり、絵になる。

 翔太さんは、静かにコードを鳴らした。

 ジャラーン。

 そして、歌い始める。

 まだ歌詞のない、メロディだけの歌。

 低くて、深い声。

  夜の海みたいな歌。   

でも、もう、悲しいだけの海じゃない。   

朝焼けに向かう海の音だ。

 中野のおじさんが、酒を飲む手を止めた。

裕子さんも、料理を運ぶ手を止めた。

お客さんたちも、自然と会話をやめる。

 NAKANOの空気が、ふっと変わった。

  最初の夜と、似てる。   でも、違う。

 あの時の歌は、沈んでいく歌だった。

いまの歌は、戻ってくる歌だ。

 翔太さんの声が、夏の夜に溶けていく。

 ガラス越しに、ぬるい夜風。 遠くで、まだセミが鳴いている。

  翔太さんの夏は、いま、本当に始まったんだ。

 そう、思った。

 ジオンさんは、糸目で静かに聞いていた。

  その糸目の奥で。   

ほんの少しだけ、何かが光った気がした。

 でも、わたしは、見なかったふりをした。

 この人は、たぶん、人前で感情を見せる人じゃない。

 そう思ったから。

 だから、わたしも黙って、翔太さんの歌を聞いていた。

 セミの声。 グラスの氷の音。 古いギターの響き。

そして、夏の夜に伸びていく歌声。

  歌、また聴かせて。   これから、何回でも。

 そう、心の中で思った。

 夏は、まだ終わらない。

 翔太さんの歌も。 わたしの夏も。

 まだ、始まったばかりだった。



ここまでお読みくださり、ありがとうございました。


次のお話で、またお会いできましたら幸いです。


最新話はカクヨムにて先行公開中

https://kakuyomu.jp/works/2912051599581287637


感想・ブックマークなど、いただけましたら、励みになります。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ