第2話 お母さんは、見ている
店に入ると、コーヒーの匂いが先に来る。
朝の分を挽ききったあとの匂いだ。酸っぱいところが落ちて、丸くなっている。ドアを閉めると、通りの風の音が切れた。
「いらっしゃいませ」
美月がカウンターの中から言って、それからこちらを見て、言い直した。
「あ、お母さん」
「はい」
コートを脱いで裏の棚に掛ける。エプロンの紐を後ろで結んで、袖を二つ折りにする。指輪を外して、ポケットに入れる。手を洗う。爪は短くしてある。この店に入るときに指輪を外すのは、もう癖になっている。
カウンターの上に神棚がある。手を拭いてから、そこに手を合わせた。それだけで裏へ入る。
十時を回った店内は、朝より静かだ。テーブル席は四卓のうち二卓に人がいる。カウンターは六つのうち三つ。窓寄りの席で男の人が新聞を広げていて、その足元の日の当たるところに、ミーが丸くなっている。三毛猫は人の話には入らない。
いちばん奥の席は、空いていた。
冷蔵庫を開けて、ミルクピッチャーを出した。中身が三分の一を切っている。継ぎ足して、口を拭いて、台に戻す。砂糖壺の蓋を順に開けて、両方に足す。おしぼりの籠は残りが四本だったので、蒸し器から出して八本にした。
「お母さん、ミルク」
美月が振り向いて言って、ピッチャーがもう台にあるのを見た。
「あるね」
「あるわよ」
「早い」
美月はそれ以上は言わないで、湯を落とす手に戻った。細い口から、ゆっくり回して落とす。粉が膨らんで、真ん中がへこむ。誰かに教わった落とし方ではない。この子が自分で決めた速さだ。
美月の前髪が、右のほうだけ落ちてきている。朝からずっと湯気の前にいるからだ。わたしはピンを一本、棚の隅に置いた。美月は五分ほどして、何も言わずにそれを使った。
食パンを数えた。朝の分を引いて、九枚ある。いつもなら八枚になっている時間だ。数えてから、袋の口を留め直した。
三番のテーブルのお客さんが、鞄から小さな袋を出した。折り目のところが白くなった薬の袋だ。わたしはグラスに水を注いで、氷を一つだけ入れて、持っていった。
「お待たせしました」
「ああ……どうも」
お客さんは袋を持ったまま、少し笑った。氷が一つ、グラスの中で回った。
二番のテーブルの女の人は、両手をカップに巻きつけたまま、しばらく動かさないでいた。外は風がある。わたしは蒸し器から一本出して、持っていった。
「よろしければ、どうぞ」
「あ……ありがとうございます」
女の人はおしぼりを両手で挟んで、そのまま少しだけ目を閉じた。それから、指をひらいて、閉じて、もう一度ひらいた。
カウンターの手前の二人が、話を止めて時計を見た。片方が携帯電話を伏せて、鞄の持ち手に指をかけた。わたしは伝票を二枚書いて、重ねてレジの横に置いた。二人が立ち上がったときには、もう渡せる形になっている。
「ごちそうさま。ここのコーヒー、うまいねえ」
「ふふ。ありがとうございます」
お釣りを渡すとき、お客さんが一度、言葉を止めた。それから、同じことをもう一度言った。
「うまいねえ」
「またどうぞ」
ドアベルが鳴って、風が入って、閉まった。
「お母さんさあ」
美月が布巾でカウンターを拭きながら言った。
「今の人、二回言ったよ」
「そう?」
「言った」
「聞こえていなかったのかもしれないわね」
「聞こえてたって」
美月は笑って、それで終わりにした。
空いた席を片づけに出た。カップとソーサーを重ねて、伝票の控えを拾う。テーブルを拭いて、椅子を入れる。そのついでに、ドアのガラスのほうを見た。ホールの明かりがついている。エレベーターの前には誰も立っていない。扉の上の表示灯は、四で止まっていた。
布巾を持ち直して、テーブルの脚のところまで拭いた。
洗い場に戻って、朝の分を洗った。カップが二十六、ソーサーが二十六、グラスが十一。ここのカップは持ち手が細いから、洗うときは指を二本しか入れない。それを美月に教えたのは、ずいぶん前だ。今はもう、わたしより早く洗う。
豆の缶を持ち上げて、底の重さを確かめた。深煎りは残りが四分の一で、浅いほうは半分ある。裏の板に鉛筆で書いてある発注の欄に、深煎りのところだけ丸をつけた。美月は書かなくても覚えている。書いてあれば、悠斗でも取りに行ける。
美月の水のグラスは、朝に注いだまま減っていない。カウンターの内側の、いちばん端に置いてある。わたしはそれを下げて、新しく注いで、同じところに戻した。美月は気がつかなかった。しばらくして、一息に飲み干した。
十一時を過ぎると、通りの人の歩き方が変わる。急ぐ人が減って、外を見ながら歩く人が増える。窓の外の桜は、まだ三分ほどだ。風が来ると枝の先が細かく揺れて、花のところだけが白く動く。
上の階の人が下りてきた。ビルの中の会社の人で、いつもカフェオレを頼む。カウンターの、奥から三つ目に座った。
美月がカフェオレを出した。その人が携帯電話を見て、それからポケットのものが鳴って、上着の内側に手を入れた。肘がカップに当たった。
音は小さかった。ソーサーの上でカップが半分傾いて、カフェオレがカウンターに広がって、縁から糸のように落ちた。
「あっ」
「大丈夫ですよ」
わたしは布巾を持って、カウンターの外へ出た。先にその人の袖を見た。紺の上着の右の袖口に、小さな染みが二つ。膝には落ちていない。
「服、大丈夫ですか?」
美月がカウンターの中から言った。手はもう、新しいカップに伸びている。
「あ、いや、こっちが、すみません」
「上着、脱いでいただけますか。拭きますね」
その人が上着を脱いで、わたしに渡した。袖口を、水で濡らした布で押さえる。それから乾いた布で挟んで押す。擦らない。紺の生地は、擦るとそこだけ先に艶が出る。
「俺、こういうの多いんです。会社でも言われるんですよ」
「そうですか」
染みの縁が薄くなってきた。わたしはもう一度、乾いた布で押した。
その人は座ってから、三回謝った。四回目のときに、美月が新しいカフェオレを置いた。
「熱いので、気をつけてくださいね」
「……すみません」
「いえ」
美月はもう次のドリップに戻っていた。
上着を返して、わたしは床にしゃがんだ。カウンターの下の巾木のところまで拭く。カフェオレは細いところへ入る。膝をついた床は、朝に美月が拭いたばかりで、まだ冷たかった。
拭いたあとの床は、しばらく滑る。乾いた布巾を一枚、そこへ広げて置いた。カウンターの中を通る人は今ひとりしかいない。そのひとりが、この店でいちばん歩く。
しばらくして、その人がレジに来た。財布から千円札を出して、少し迷って、もう一枚出そうとした。
「一杯です」
美月が言った。
「でも」
「一杯ですよ」
その人は千円札を一枚だけ置いて、頭を下げて出ていった。ドアベルが鳴った。ミーが顔を上げて、また下ろした。
布巾を絞って、バケツの水を替えた。手を動かしながら、ドアのガラスのほうを見た。ホールに人はいない。表示灯は、七のところで止まっている。
「お母さんも気にしてるじゃん」
美月が言った。
「何を?」
「いや」
美月はそれだけ言って、ミルのほうへ戻った。
わたしは蒸し器を開けて、おしぼりを四本足した。籠は、さっき八本にしたばかりだった。
昼前の、いちばん静かな時間になった。
窓寄りの男の人が新聞をたたんで、レジの前に立った。伝票はもう出してある。
「はい、ちょうどですね。ありがとうございます」
「寒いね、まだ」
「そうですねえ。風が冷たくて」
「あんた、ここ長いの」
「ええ。長いです」
男の人はそれ以上は訊かないで、外へ出て、コートの襟を立てた。歩き出す前に、一度だけ窓のほうを見た。わたしは頭を下げた。
美月が昼の仕込みに入った。パンを切る音が二回。玉ねぎを刻む音が、そのあとに続く。
わたしはカウンターを端から拭いた。いちばん奥の席の前で、布巾が止まった。カップも、おしぼりも、水も出ていない。拭くところは、何もない。一度だけ往復させて、次へ進んだ。
外の通りを、自転車が二台続けて通った。桜の枝の下で、後ろの一台が少しよけた。
壁の時計を見た。長い針と短い針が、十二のところで重なった。
午前が終わる。
「珍しいわね」




