第1話 まだ、来ていない第1話 まだ、来ていない
六時に、シャッターの鍵を開ける。
朝の空気はまだ冷たい。手袋を外して鍵を回すと、指先が金属に貼りついた。シャッターを腰の高さまで上げて、下をくぐる。中に入ってから、内側の紐で最後まで上げきる。この音でビルの二階が起きる、と父は言うけれど、二階の人はいつも七時十分に降りてくるから、たぶん関係ない。
灯りは奥から順につける。厨房、カウンターの上、それからテーブル席の上。三つ目のスイッチだけ少し固い。
レジを開けて、釣り銭を数える。千円札が二十枚、五百円玉が十枚、百円玉が五十枚。朝はいつも細かいのが減る。持ち帰りの人はだいたい千円札を出して、細かいのを受け取って出ていくからだ。
テーブルは四卓。椅子は昨夜のうちに逆さに上げてある。二脚ずつ持って下ろして、脚のゴムの位置を床の目地に合わせる。十六脚を下ろし終えるころには、腕が温まっている。
カウンターは六席。布巾で手前から拭く。いちばん奥の一席だけ、肘の当たるところの木の色が薄い。
砂糖壺の中身を足す。ミルクのピッチャーを冷蔵庫から出す。おしぼりを巻く。二十本巻いて、蒸し器に立てる。巻くのは手が覚えているので、頭のほうは別のことを数えている。今日はパンが六斤、卵が二パック、牛乳が四本。
窓を五センチだけ開ける。風が入る。まだ冷たいけれど、開ける前に一度、空気を入れ替える。
六時二十分に、表のガラス戸が二回叩かれた。パンだ。食パンが六斤と、ロールが二袋。受け取って、伝票に判を押して返す。毎朝同じ人で、毎朝同じ長さの立ち話をする。
「今日、風強いよ」
「そうみたいですね」
それだけで行ってしまう。
豆を出す。深煎りを二種類、中煎りを一種類。ミルの目盛りを合わせて、一杯目のぶんだけ先に挽いておく。粉の匂いが立つと、店の中がやっと店の匂いになる。
湯を沸かす。やかんは二つある。落とすための細口と、湯せんと洗い物に使う大きいほう。細口を火にかけて、蓋を少しずらしておく。沸いてから一分置くと、ちょうどいい温度になる。
沸くまでのあいだに、神棚の水を替える。
棚はカウンターの上、壁のいちばん高いところにある。踏み台に乗って、小さな器を下ろす。水を捨てて、新しいのを注いで、戻す。それから手を合わせて、二度打つ。目を開けて、踏み台を降りる。踏み台は冷蔵庫の横に立てて片づける。
六時四十分に、一杯だけ落とす。飲むためではなくて、味を見るためだ。豆は毎日同じではない。同じ袋でも、日が経てば落ちる速さが変わる。少し粗くしたほうがいい日と、そのままでいい日がある。今日はそのままでいい日だった。残りはカウンターの端に立ったまま飲んだ。
黒板に、今日のトーストを書く。厚切りと薄切りの二種類。バターかジャム。字は父より下手だけれど、父より読みやすいと言われる。
水差しに水を入れて、氷を六つ落とす。朝のうちは六つでいい。昼になると足りなくなる。
表のガラス戸を開けると、ミーがいた。
三毛で、茶色が多い。日の当たるところに、前脚をそろえて座っている。どこから来るのかは知らない。開けるころには、だいたいここにいる。
「おはよ」
ミーはこちらを一度見て、それから通りのほうを見た。
六時五十五分に、戸の札を裏返す。準備中の面が内側になる。
立て看板を出す。ビルの前に桜が一本ある。三分くらい咲いている。風が吹くと、花より先に枝が動く。
看板には「NAKANO・朝昼夜舎」と入っている。朝も昼も夜も、同じ屋号だ。夜になるとカウンターの中身が酒に変わって、立つ人が父に変わる。看板は変えない。父は「三つ考えるのが面倒だったわけじゃない」と言う。誰も訊いていないのに、年に何度か言う。
七時。
ドアベルが鳴って、最初のお客さんが入ってきた。上の階の人だ。いつも持ち帰りで、ブレンドを一杯。
「おはようございます。ブレンドでいいですか」
「うん、いつもの」
紙のカップに落として、蓋をきつめに閉める。この人はエレベーターの中で一口飲むから、蓋が緩いと零れる。前に一度、袖に落として、それでも笑っていた。
「熱いので、気をつけてくださいね」
「ありがとう」
七時八分から、次の湯を落としはじめる。七時十分に、二階の人が降りてくるからだ。トーストとゆで卵とコーヒー。新聞は読まない。携帯を見て、七時二十五分に出ていく。この人の時間はほとんど動かないので、こちらも動かさない。
次に入ってきたのは、毎朝同じ席の人。窓際の手前の卓に座って、鞄から新聞を出す。トーストとコーヒー。砂糖は使わないので、ミルクだけ添える。
「今日、ゆで卵ありますよ」
「じゃあ、それも」
卵は五つ茹でてある。塩を小皿に少し。
七時半を過ぎると、人が続けて入ってくる。作業着の二人組はコーヒーを二つとトーストを一つ。上の階から降りてきた人が三人、そのうち一人は階段で降りてきて、少し息が上がっている。持ち帰りが四つ、店内が五つ。伝票を書きながら、ドリッパーを二つ並べて落とす。
両手が荷物で塞がっている人が来たので、先に戸を押さえた。
「おはようございます。カウンターでいいですか」
「悪いね」
「置き場所、ここ空けますね」
カウンターの端の椅子を一つ引いて、荷物を置いてもらう。
コーヒーを二杯続けて頼む人がいる。一杯目は熱いうちに飲んで、二杯目は時間をかけて飲む。だから一杯目を出したところで、二杯目のぶんの湯をもう一度沸かしておく。
見かけない人が一人入ってきて、黒板をしばらく見上げていた。
「どれが薄いですか」
「深煎りのほうが濃く感じます。苦いのが平気でしたら、中煎りのほうが軽いですよ」
「じゃあ、軽いほうで」
中煎りを落として、ミルクを添えて出す。ミルクには手をつけなかったので、二杯目からは添えないことにする。
新聞の人が、三面を読み終えて紙を畳んだ。畳み方が縦になったら、そろそろ出る。伝票を先に置いて、レジの横に立つ。
「ごちそうさま」
「ありがとうございます。いってらっしゃい」
九時までに、二十二杯落とした。トーストが九枚、ゆで卵が四つ。
洗い物の音と、ドアベルと、外を通る車の音。朝はだいたいこの三つしか聞こえない。
九時半を回ると、引き潮みたいに人がいなくなる。
残ったのは奥のテーブルの一組だけで、その人たちも十分ほどで出ていった。皿を重ねて、テーブルを拭いて、椅子の位置を戻す。伝票を数える。二十一枚。持ち帰りを足すと三十を超える日もあるけれど、今日は超えなかった。ミルの受けを外して、粉を落として、豆を足す。テーブルの脚のあいだに落ちていた砂糖の袋を拾って、窓を閉める。
表を見ると、ミーはまだ看板の脚のところに座っていた。
牛乳のケースが空になったので、抱えて店を出た。
ドアを開けると、ホールの空気は店より冷たい。外の音が急に遠くなる。ホールの奥には使っていない事務所の扉があって、取っ手のところだけ金色が残っている。
空のケースを壁ぎわに積む。積みながら、エレベーターのほうを見た。
扉の上に階数の表示灯がある。灯りはひとつも動いていない。到着音は、今朝はまだ一度も聞いていない。
珍しいな、と思う。
思っただけで、ケースの向きをそろえて、店へ戻った。
カウンターの中に入って、洗い物を片づける。細口のやかんに水を足して、火にかける。十一時からの分の仕込みにかかる。昼はナポリタンとサンドイッチが出る。玉ねぎを二つ刻んで、鍋に油を敷いた。人参は使わない。父が入れないほうがいいと言ったので、それ以来入れていない。
十時を過ぎて、ドアベルが鳴った。
母だった。ドアベルを手で押さえないので、いつも鳴る。押さえて入ってくる人もいるけれど、母は鳴らして入ってくる。
「いらっしゃいませ」
言ってから、言い直した。
「あ、お母さん」
「はい」
「混んだ?」
「二十二」
「じゃあ、いつもね」
母はコートを腕にかけたまま、店の中を一度見た。窓際、テーブル、それからカウンターを、手前から奥まで。
「今日は、まだなのね」
「うん」
母はコートを裏の棚に掛けて、袖を二つ折りにした。エプロンの紐を後ろで結んで、指輪を外す。手を洗って、神棚に手を合わせて、それから裏へ入っていった。
ミーがいつのまにか店に入ってきて、窓ぎわの席の、日の当たっているところに丸くなった。
やかんが鳴った。
わたしは火を止めて、一分待った。




