第8話 二本と、一本
夜になって、保坂はジムへ行った。
ここへ寄ってから向かっても、二十二時には間に合う。十五年、そういう時間の使い方をしてきた。
階段の三段目が鳴る。ドアを開けると、蛍光灯はもう点いていた。四回戦の子たちが縄跳びを跳んでいる。床を打つ乾いた音が二つ、少しずれて重なっていた。
受付の横の壁に、色の褪せた紙が貼ってある。十四年間、ずっとそこにある。名前が活字で印刷されているのは、ジムの中でその一枚だけだった。
会長がリングの上にいた。
ミットをつけている。古いほうの、手のひらの縫い目が割れかけているやつだ。ロープに背中を預け、こちらを見ていた。
「三分、一ラウンドだ」
保坂は上着を脱いだ。
更衣室へは行かない。シャツのまま、ロープをまたいだ。キャンバスは乾いている。誰かが今日も拭いていた。
バンテージは巻かなかった。
会長は何も言わない。壁の時計を見やり、ミットを上げた。
ゴングは鳴らなかった。
保坂は打った。
左が二つ。会長のミットが小気味よく鳴る。腰から先が、順番どおりに動いた。右を叩き込むと、音が変わる。芯を捉えた、重く厚いほうの音だった。
会長のミットがわずかに下がり、また上がる。下がったところへ、もう一発打ち込んだ。
縄跳びの音が、片方だけ止まる。それから、もう片方も止まった。
肩が熱くなってくる。息が上がるのは、いつも二分を過ぎてからだ。今日も、そこまでは上がらなかった。額の汗が眉で溜まり、それから右目に入った。片目をつぶり、そのまま打った。
素手の上にバンテージも巻いていないため、拳の骨が硬く当たる。皮と関節が痺れ、痺れたまま、次を繰り出した。
この音を、十八年聞き続けてきた。近ごろは、受ける側で聞くことのほうが多かった音だ。
会長は動かない。足元だけが、半歩ずつミリ単位で位置を直している。ミットの高さは、いつもと同じ位置にあった。手加減して低く構えてはくれない。
左、左、右。
鋭く鳴った。
まだ、打てる。
会長が時計を見て、ミットを下ろした。
保坂も手を下ろす。息は、まだ残っていた。両腕も上がる。
会長はミットの紐を前歯で引き、外した。二つ揃えて、リングの端へ置く。それから、首のタオルで両手を拭いた。指のあいだを、一本ずつ丁寧に拭っていく。
縄跳びの音は、まだ再開しない。
会長が顔を上げた。
「東和ボクシングジム、保坂克巳」
試合のリングアナウンサーのように大げさではなく、事務的に所属と名前を読み上げるような低い声だった。
十八年間、一度もそう呼ばれたことはなかった。
「——お疲れさん」
「うす」
それ以上の言葉は、リングの上には落ちてこなかった。
体重をかけると、ロープが小さく軋んだ。保坂はズボンのポケットから鍵を取り出した。リングの輪ごと、会長の胸元へ差し出す。
会長はそれを見下ろしたまま、両手を下ろした。
「まだ、いい」
それだけだった。背を向け、ロープをくぐっていく会長の背中は、十八年前から少しも縮んでいなかった。受付の奥へ戻っていき、帳面を開く、紙の擦れる音がした。
保坂は鍵の輪を握りしめたまま、しばらくキャンバスの上に立ち尽くしていた。
縄跳びが、また始まった。二つの音が、少しずれて床を鳴らす。
保坂はロープをまたぎ、畳んであった上着を取った。階段を下りるとき、わざと三段目を踏んだ。
二十二時に、制服へ着替える。
地下の駐車場から始めて、一階の店舗裏口、二階、三階、四階。屋上へは出ない。帰りは非常階段を下りてくる。十五年、変わらない順番だった。
零時の巡回。二時の巡回。四階の給湯室の電気は、今日は綺麗に消えていた。
異常なし、と書いた。
ミットを打った拳が、少し赤く腫れていた。懐中電灯を持つ手を、途中で左から右へ持ち替える。
四時半に、ロッカーへ制服を掛けた。
外へ出ると、夜明け前の空はまだ暗い。東の地平の低いところだけが、薄く白んでいた。
駅前を横切って、線路の下をくぐる。ガードの中は、いつも自分の靴音しか響かない。高架を抜けると、朝の冷たい風の匂いがした。
商店街のシャッターはすべて下りている。魚屋の店先に、水を撒く前の乾いたコンクリートの跡があった。新聞配達の原付が、遠くで一度エンジンを止め、また走り去っていく。
保坂は歩いた。歩幅は、いつもと同じだった。
いつもの角を、曲がる。
雑居ビルの前に着いた。
シャッターは下りたままだった。下の鉄の桟に、埃が一列に白く溜まっている。これを見るのは、いつも自分が最初だった。
二階の窓は暗い。階段の上も暗かった。
空が、さっきより一段明るくなっている。
五時だった。
保坂は、シャッターの取っ手に手をかけなかった。
ポケットからキーリングを取り出す。
鍵は二本。親指の腹で輪の切れ目を探した。爪が滑る。一度目は開かなかった。もう一度、爪の先を隙間に強く差し込んで、押し広げた。
真鍮の鍵を、キーリングの隙間から押し出す。角の丸くなった金属が、指先をすり抜けてチリンと音を立てた。
かつて二十歳の春、会長から渡されたときは鋭く尖っていた角を、十三年分の朝がここまで丸くした。
外した鍵を、上着の内ポケットへ落とす。病院の診断書と、面接のメモ。その二枚の紙の底に、真鍮が静かに沈んだ。
輪に残った鍵は、アパートの一本だけになった。
シャッターの向こうからは、何の物音もしない。
通りの端から、自転車が一台こちらへ向かって走ってきた。
稲村だった。前カゴのハンドルに袋を提げている。保坂の三軒手前でブレーキをかけ、ペダルから降りて押してきた。
「保坂さん」
保坂は、無言で片手を上げた。
稲村は首から細い紐を引き出した。先端に、角の立った真新しい鍵が下がっている。
保坂は背を向けて歩き出した。
角を曲がるほうではなかった。
歩き出しても、ポケットからは何の音もしない。
ぶつかり合う相方を失った金属は、ただ冷たく太ももの布に触れているだけだった。
アパートに戻り、三時間ほど眠った。
目が覚めると、日が高く昇っていた。畳の焼けた色の境目が、朝とは反対の壁際へ伸びている。洗面所で顔を洗い、髭を当たった。剃刀の刃をいつ替えたのかは、どうしても思い出せなかった。
シャツは、洗濯して畳んであったほうに腕を通す。襟の折り目が、少し擦れて薄くなっていた。
上着を羽織り、内ポケットの上から掌で確かめる。紙が二枚と、鍵が一本。
昼前に、部屋の鍵をかけて出た。
線路沿いの道は、一面の光に満ちていた。青い草の上を、初夏の強い光が渡っていく。
面接先へ向かう道すがらに、あのレンガのビルがある。
赤い壁が、直射日光を浴びて乾いていた。
慈恩が外に出ていた。
窓枠のシャッターを、ぎこちない手つきで押し上げているところだった。線路脇の、小さいほうだ。両手で下から持ち上げ、途中で引っかかって金属のレールが甲高い軋み声を上げる。毎朝五時に滑らかに巻き上げていた保坂の手とは、まるで違う手だった。
保坂は足を止めた。
木枠のドアに、あの紙はまだ貼ってある。風でめくれていた上の角が、新しいテープで留め直してあった。
慈恩は手を止めない。上まで押しきって、留め具を下ろす。それから手についた鉄錆を払いもせず、遮断機の降りた踏切の向こうを見つめていた。
「これから、ですか」
「……はい」
保坂が答えると、慈恩は一度だけ小さく息を吐いた。
「その道が向いてると思います」
顔は向けなかった。
けれどその言葉は、リングの上で聞いたどんな檄よりも、保坂の背中にまっすぐ届いた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




