第7話 三枚の紙
線路の脇の草が、伸びていた。
この前来たときは、枕木のあいだに土が見えていた。今は、そこが青くなっている。日が高い。レールの上が、白く光っていた。
保坂はその道を歩く。昼の光は朝と同じ場所を照らし出しているが、影の落ち方だけが違っていた。
途中に、いつもの角がある。曲がらなかった。この前も曲がらなかった。あのときは曲がらないと決めてから足を踏み出したが、今日は手前で何も考えなかった。
レンガのビルは、線路のすぐ脇に建っている。壁が、日に当たって赤い。
木枠のドアに、紙が貼ってあった。
気づかせ屋
上の隅のセロテープが、片方だけ剥がれている。紙の角が、風にあおられて持ち上がっていた。
保坂は、それを指の腹で押さえる。離すと、また浮いた。
ノブを回した。
中は、この前とまったく同じだった。机の端の灰皿に、吸い殻はない。
慈恩は座っていた。目を閉じている。
「どうぞ」
驚いた声ではなかった。この前と同じ調子で、同じ長さだ。
保坂は椅子に腰を下ろす。座ると、ポケットの中で鍵が鳴った。
机の端に、紙が三枚置いてある。畳んだままだ。この前、ドアの外で聞いた音のとおりの形で、そこにあった。
慈恩はそれを手に取り、一枚ずつ広げた。折り目に沿って開き、机の上に並べていく。指の節が細い。爪の先まで、均一な速度で動いていた。
九時。打たない。日による。
二十二時。打たない。毎日同じ。
十時。打たない。日による。
同じ筆跡だった。会社の名前は、どこにも書いていない。
「なんで、三つあるんですか」
「ぼくが選ぶと、あなたの仕事にならないからです」
どれがいいですか、とは訊かなかった。並べ終えると、慈恩は手を膝へ戻す。
保坂は三枚を見つめた。時刻がある。打つか打たないかがある。順番のことが書いてある。それだけだった。
右端の紙に、指を置いた。
「これは、なんの仕事ですか」
「スポーツ用品の配送助手です。ジムにも、品物を納めます」
電車が通過していった。ガラスが細かく鳴って、止む。
保坂は、その紙を静かに脇へ寄せた。
「これは、いらないです」
理由は言わなかった。
訊かれもしなかった。
慈恩は紙を取り上げ、三つに折った。引き出しを開けて中へしまう。音もなく閉めた。それだけだった。
残ったのは、二枚。九時と、二十二時。どちらも、打たない。片方は日によって、片方は毎日同じだと書いてある。
九時に何かを始める暮らしを、保坂は知らなかった。十八の春から、その時刻はいつも寝ているか、寝そびれているかのどちらかだったからだ。
保坂の指が、机の上を左から右へ滑る。九時のところで止まり、それから隣へ移った。
二十二時の紙を、指先で押さえた。
「これで」
慈恩は、理由を尋ねなかった。
「施設の夜間警備です。上がりは、四時半」
窓の外で、踏切がカンカンと鳴り始めた。
「……はい」
保坂は膝の上で、指の関節を押す。人差し指、中指。三本目でやめた。
「職歴、ないんですけど」
「駅前の、商業ビルですね。二十二時から、朝の四時半まで」
言っていなかった。
右手が、膝の横で跳ねた。
保坂は言葉を探した。何か言えば済むはずだった。探して、見つからない。
パイプ椅子が甲高く鳴った。
気がつくと立っていた。上着の裾が背もたれに引っかかり、乱暴に引き剥がす。ドアまで、三歩だった。
外へ飛び出した。
線路の柵に両手をつく。日差しが、まだ高い。目の前を電車が走り抜けて、突風が起こり、砂埃が舞った。柵の赤錆が、手のひらの皮膚をざらつかせる。
人は、殴っていない。
強く握りしめた拳を開いた。指を一本ずつ伸ばし、また握り直して、開く。骨の関節が、順にポキポキと鳴った。
誰も追ってこない。ドアは固く閉ざされたままで、室内の気配は電車の轟音に掻き消されていた。
しばらくその場に立ち尽くしていた。強い日差しが、シャツの背中を容赦なく熱くしていく。息を深く吐き出してから、ドアノブに手をかけ、中へ戻った。
慈恩は先ほどと寸分違わぬ姿勢で座っていた。何も訊いてこない。
保坂は元の椅子に腰を下ろした。
「十五年、一度も穴を開けてない人を、職歴無しとは言いません」
「……あれは、仕事じゃないです」
「そうですか」
それきりだった。無理に言葉を重ねてこない。
九時の紙も、まだ机の上に置かれていた。
「明日の、一時です」
保坂は顔を上げた。
「場所は、駅の北口を出て、川のほうへ。四つ角の、白い建物です」
保坂は耳だけで聞いた。メモ帳もペンも出さない。ポケットにも入っていなかった。
「ぼくは、面接には行きません」
慈恩は、それだけを淡々と告げた。
保坂は立ち上がった。ドアを開けて外へ出ると、貼り紙の角がまた風に浮いた。
帰りは、来た道をそのまま戻った。
アパートは、二階の突き当たりの部屋だ。風呂はない。共同の便所は廊下の奥にあった。外階段を上がるとき、六段目だけがいつものように少したわむ。
六畳の部屋には、濃い西日が差し込んでいた。畳の焼けた部分と、そうでない青みの残る部分との境目が、真ん中に斜めへ走っている。
畳の上に座り、上着を脱いで横へ置いた。
電話はしておきます、と慈恩は言っていた。それ以上の余計な言葉は、一つもなかった。
明日の一時。駅の北口。川のほう。四つ角の、白い建物。
もう一度、頭の中で順を追って思い出す。二度目は、川のほうが先に出てきてしまった。順番を頭の中で組み立て直し、三度目の反芻を試みる。
立ち上がった。短くなった鉛筆が、茶碗の横に転がっている。芯の先が丸く潰れていた。いつからそこにあるのかは、思い出せない。
メモ用紙が、なかった。
押入れの襖を開ける。畳んだ普段着と、ビニール袋に入れた冬物が押し込まれているだけだった。襖を閉める。
郵便受けを覗き、入っていたチラシを一枚引き抜いた。裏面は白紙だった。
畳の隅に、もらってきた紙が一枚だけ置いてある。先週、ハローワークの掲示板の前で、窓口の職員が差し出してくれた求人票だった。
経験不問。未経験歓迎。
その下に、小さく括弧書きがある。
三十五歳まで。
自分は今、三十三だった。
あと二年しかない。
保坂はその求人票を、元の位置へそっと戻した。
チラシの裏に、丸まった鉛筆の先を当てる。畳の柔らかさで紙が沈むため、鉛筆を寝かせるようにして握った。
一時。北口。川。白い建物。
文字を書く機会は、これまでほとんどなかった。試合の前に誓約書へサインするときも、書く枠は決まっていて、そこに自分の名前を収めればよかった。筆圧が強すぎて線が太くなり、四つ目の「建物」の字で、黒鉛がぎらりと鈍く光った。
何度も読み返した。頭の中にある記憶と同じだった。
チラシを折る。きっちりと四つに折り畳み、脱ぎ捨ててあった上着の内ポケットへ差し込んだ。
先に収まっていたものに、カサリと当たる。
医院で渡された診断書だった。紙の四隅が、すっかり丸くなっている。
ポケットの中の紙が、二枚になった。
窓の外が、夕焼けで赤く染まり始めている。線路の向こうで、雑居ビルの窓々に一つずつ四角い灯りが入っていく。あの灯りの下を、これからまた歩いていくのだ。
夜勤の始まる時間まで、まだ間があった。
上着を丁寧に畳み、万年床の枕元へ置いた。




