第6話 あの頃、どこで寝てた
商店街の軒先に、扇風機が出ていた。
箱に入ったままのものが三つ、店の前に積んである。値札が糊で貼ってあって、端がめくれていた。この前まで、同じところに長靴が並んでいたはずだ。いつ並べ替えられたのかは、知らない。
保坂はその前を通った。
夕方の道だ。魚屋の氷は朝より小さくなっていて、道の端を流れていた水が乾きかけている。店はどこも開いていて、荷物を提げた人が真ん中を歩いていく。
この時刻にここを歩くのは、試合の帰りくらいのものだった。
十三年、この道はいつも暗かった。
いつもの角を曲がる。
雑居ビルの間口に、シャッターは下りていなかった。上がったところの内側に、畳んだ段ボールが二つ、壁へ立てかけてある。よその店のものだ。誰かが寄せた形になっていた。
階段の上が、明るい。
保坂は上がった。踏み板の三段目が鳴る。十三年、そこだけが鳴る。踏まずに越す癖が足に残っていて、今日は、そのまま踏んだ。
ドアを開けた。
蛍光灯が点いている。二度またたいたあとの光だった。
リングの上に、人がいた。膝をついて、キャンバスを拭いている。横にバケツが置いてあって、絞ったばかりの雑巾から、水が一滴ずつ落ちていた。
稲村だった。
「あ、先輩」
稲村は雑巾を持ったまま立ち上がり、ロープの内側から頭を下げた。手の甲で額を拭って、もう一度下げる。
「おう」
保坂はドアのところに立ったままだった。中へ入るのを、忘れていた。
「鍵、会長から借りました」
稲村の首から、細い紐が下がっている。先はシャツの中に入っていた。
「おう」
稲村はまた膝をついて、続きを拭きはじめた。青コーナーの側からだった。そこから斜めに、真ん中へ向かっていく。
保坂は赤コーナーから拭く。四隅を先に片づけて、最後に真ん中を拭く。十三年、その順だった。
誰にも教わっていない。誰にも教えていない。
突き当たりの窓が、開いていた。掛け金の堅い窓だ。手のひらの付け根で二度叩かないと上がらない。上がっていた。
サンドバッグは、下が太っていなかった。上のほうを握ると、布が少し余る。少しだけだった。口の紐の締め方が、自分の締め方ではない。床は乾いていた。
鏡は赤コーナー側の壁一面にある。下のほうの斜めのひびは、そのままだった。ひびの上には、誰も立っていない。
更衣室のほうから、四回戦の子たちの声がした。笑い声がして、それから縄跳びの音が始まる。誰も出てこない。
保坂は、上着を脱がなかった。
受付の奥は、机が一つ入るだけの狭い場所だった。会長室と呼ぶ者はいない。壁に、去年のカレンダーが掛かったままになっている。
会長がそこにいた。帳面を開いて、ペンで何かを書いている。眼鏡はかけない。紙のほうを、腕の長さぶん遠ざけていた。
「会長」
「なんだ」
ペンは止まらなかった。
保坂は内ポケットに手を入れかけて、やめた。折った紙は、そこに入ったままだ。四隅が、少し丸くなってきている。
「まだ、やれます」
数字を書く音が続いた。書いて、下の行へ移る。指を舐めて、次の欄へ移る。
会長は顔を上げなかった。
「お前、二十歳んとき、どこで寝てた」
保坂は口を開いた。
声が出なかった。
ペンの音が、また始まる。
膝の横で、右手が動いた。人差し指の関節を探して、探すのをやめた。
更衣室の奥に、練習用のマットが積んである。厚さの違うものが四枚。いちばん薄いのを一枚だけ下ろして、その上に寝た。朝になったら、また積んだ。誰かが来る前に、元の高さへ戻せばよかった。積む順番まで、まだ手が覚えている。
十八の春に、家を出ていた。
冬は、窓の桟の下から隙間風が来た。マットの端を折って、そこへ寄せる。それでも足の先だけは温まらなかった。ジャージを二枚重ねても、朝までに一度は目が覚めた。
二十歳の春、会長が鍵を渡してくれた。
真鍮の、新しい鍵だった。角が立っていた。
言われたのは、一言だった。
朝いちばんに開ける係だ。
保坂は、それを十三年やった。一日も、人に譲らなかった。
もう一度、まだやれます、と言おうとした。
言えなかった。
会長がページをめくった。紙が乾いた音を立てる。次の見開きにも、同じ形の欄が並んでいた。
「もう寝るとこ、あんだろ」
「はい」
会長はペンを置いた。
机の下の引き出しを開けて、中から鍵の束を取り出す。引き出しの底で、金属が一度ぶつかる音がした。
輪に通してある。何本かに、紙の札がついていた。字は薄れていて、どこの鍵なのかは読めない。
束を机に置いて、指で送りはじめた。
一本ずつ、輪の上を回していく。金属が擦れ合う音が、そのたびにする。会長の指は太くて、爪が短い。
この束が増えたのも減ったのも、保坂は見たことがない。十三年、引き出しの奥でずっと同じ音がしていた。
指が、途中で一度、空を送った。
会長は最後まで送り終えて、束を引き出しへ戻した。閉めて、またペンを持つ。
保坂には、何も言わなかった。
リングのほうで、雑巾を絞る音がした。
稲村がバケツを提げて立っている。首の紐が、シャツの外へ出ていた。
先端に、鍵が一本下がっている。
角が、立っていた。
机の端に、雑誌が一冊置いてある。今月号だった。付箋も何もない。
「失礼します」
返事はなかった。
受付の横の壁に、表が貼ってあった。先月、保坂が留めたものだ。画鋲は四つとも、そのまま留まっている。紙の下の角だけが、少し波打ってきていた。
その隣に、もう一枚、紙がある。
会費納入表、と印刷してある。左に名前が縦に並び、右へ月が並んでいる。月のところに、赤い判子が押してあった。
名前は七つ。いちばん新しい名前が、いちばん下に足してある。そこだけ筆跡が違う。
稲村の欄には、判子が二つ。
保坂の欄は、いちばん上にあった。
白い。
右の端まで、白い。
会長から、会費を払えと言われたことは、一度もなかった。
表のいちばん下に、小さな活字が印刷してある。
未納の方は、速やかに納入のこと。
保坂は、上着の前を合わせた。
階段を下りた。三段目が鳴った。
通りは、まだ明るい。店の前で人が立ち話をしている。魚屋がホースで道を流していて、生臭い水の匂いがした。
角まで来て、一度だけ振り返った。二階の窓が、明るかった。
歩くと、ポケットの中で鍵が二本鳴った。
十三年、二本だった。
会長の指は、輪の上を一本ずつ送っていた。空いたところも、送った。
数えた。




