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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
もう、頭を打たない仕事

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第5話 気づかせ屋

三度、五時が過ぎた。

医院から帰ったあと、三晩、夜勤に入る。

三晩とも、四時半に制服を脱いだ。

駅前を横切って、線路の下をくぐる。

そこまでは、いつもと同じだった。

上着の内ポケットには、折った紙が入ったままだ。

角を曲がらなかった。

それだけのことで五時になり、五時が過ぎていく。

過ぎてしまえば、もう間に合わない。

シャッターの音が商店街の端まで届くのは、朝のうちだけだ。

十三年、その音を立てていたのは保坂だった。

この三日、その音は立っていない。

誰が開けているのかは、考えないようにした。

三日目の朝、保坂は駅から二本入った通りへ歩いた。

NAKANO・朝昼夜舎の引き戸を開けると、味噌汁の匂いがした。

通りにはまだ音が少ない。

客は奥のテーブルに一人だけだ。

新聞を広げたまま、顔を上げようともしない。

保坂はいちばん端の席に座った。

「焼き魚のやつ、ください」

「はい」

中野は鍋のほうを向いたまま返事をした。

厨房で、何かを刻む規則正しい音が続いている。

水の入ったコップが出てきた。

半分飲んで、置く。

小鉢が運ばれてくる前に、中野はもう一つ、水の入ったコップを無言でカウンターに置いた。

保坂の前で、コップが二つ並ぶ。

中野は何も言わず、厨房へ戻った。

定食が出てきた。

焼き魚は鯖で、皮が下になっている。

飯は熱かった。

腹は、あまり減っていない。

布巾を持った手が、カウンターの端から拭き始めた。

木目に沿って、左から右へ動いてくる。

前にも、この動きを見た。

あのとき、中野は手元を見たまま、一行だけ言った。

線路沿いのレンガのビル。一階。

そのときは、何も気に留めなかった。

何屋なのかも訊いていない。

訊く用がなかったからだ。

布巾は保坂の前を通り過ぎ、カウンターの隅で止まった。

中野はそれきり、厨房へ戻る。

今日も、何も言わない。

保坂は汁を飲み干し、箸を置いた。

勘定を置いて、戸を引く。

礼は言わなかった。

背中に、何の言葉もかからなかった。

線路沿いの道は、朝の道と同じだった。

昼の光が、レールの上で細く光っている。

途中に、いつもの曲がり角がある。

角の先の雑居ビルは、ここからは見えない。

曲がらなかった。

レンガのビルは、線路のすぐ脇に建っていた。

赤い壁で、目地は白い。

汚れているのは、下のほうの三十センチほどだけだった。

線路側の壁に、電車の音が当たって跳ね返ってくる。

一階の表側に、木枠のドアが一つあった。

紙が貼ってある。

手書きの文字だった。

画鋲ではなく、上の二隅だけセロテープで留めてある。

端が、風で少し浮いていた。

気づかせ屋

保坂はそれを読んだ。

読んでも、何屋なのかは分からない。

ノブに手をかけた。

回った。

中は、外から見たより狭かった。

机が一つ。

椅子が二つ。

窓は線路側にあって、ガラスが綺麗に磨いてある。

壁には何も貼っていなかった。

机の端に灰皿が一つ置いてあるが、吸い殻はない。

男が座っていた。

保坂は、相手の右手を先に見た。

机の上に出ている。

指が長く、節が細い。

動いていない手だった。

黒いスーツを着ている。

顔が白い。

痩せていて、歳は自分より下に見えた。

目を閉じている。

「どうぞ」

保坂は椅子に腰を下ろした。

座ると、ポケットの中で鍵が鳴る。

「あの」

その先が出てこない。

何から言えばいいのか、決めてこなかった。

「十五で、ジムに入って」

「はい」

「十九で、新人王を獲りました。それから、勝ってません」

言う順番が飛んだ。

試合の話をしてから、病院の話に戻り、それからまた新人王の話に戻る。

「十五で、扉を押して」

同じことを、もう一度言っていた。

気づいたのは、言い終わってからだ。

男は口を挟まなかった。

「朝は、五時に開けてます。掃除して、サンドバッグの砂、詰め直して」

「はい」

「先月、負けて。会長に、うちのジムじゃもう、って言われて」

「あと三年、ライセンスあるんです」

「はい」

「病院も行きました。写真を撮って。頭に、痕があるって」

その先は言えなかった。

言い方を知らない。

内ポケットで、折った紙が胸に当たっている。

出さなかった。

膝の上で、指の関節を順に押す。

人差し指。

中指。

三本目で、やめた。

「それで」

男は何も言わない。

「もう一回、リングに上がりたいんです」

言い終わると、部屋が静まり返った。

窓の外を電車が通り過ぎる。

ガラスが細かく鳴り、それから静まった。

「さっきから、鳴ってますね」

男は目を閉じたままだ。

一度も、こちらを見ようとしない。

机の上の右手も、さっきから同じ位置にあった。

「鍵、何本ですか」

保坂はポケットの上から手を当てた。

布の下で、二本の金属が重なっている。

「……二本です」

「三日、行ってないんですよね。ボクシングじゃなくて、開けに」

窓の外を、自転車が一台通り抜けていく。

保坂は返す言葉を探した。

探して、見つからない。

言われたのは、数の話だった。

合っていた。

三日だった。

数えていないつもりで、自分でも数えていた。

保坂は椅子から立ち上がった。

男が引き出しを開ける。

紙を三枚取り出し、机に並べた。

同じ大きさで、同じ筆跡の文字だった。

どれにも、三行しか書いていない。


九時。

打たない。

日による。


二十二時。

打たない。

毎日同じ。


十時。

打たない。

日による。


会社の名前はない。

何の仕事なのかも、どこにも書いていない。

時刻と、打つか打たないかと、順番のことしか記されていなかった。

「これ、何の紙ですか」

返事はなかった。

三枚は机の上に並べられたままだ。

「そういうの、いらないんで」

声が、思っていたより高く響いた。

乾いた音がした。

三枚の紙が机上で跳ねる。

灰皿が、少し位置をずらした。

自分の手が、机を叩きつけていた。

手のひらが下を向き、握りしめた指の関節が白くなっている。

震えてはいなかった。

人は、殴っていない。

男は微動だにしなかった。

目も開けない。

保坂は手を引いた。

上着の裾が椅子に引っかかる。

荒々しく引き剥がした。

ドアまで、わずか三歩だった。

ノブを回して、外へ飛び出す。

背後でドアが閉まった。

中で、紙の擦れる音がした。

畳む音だ。

三度。

軽いものを机に置く音が、そのあとに一つだけ続く。

屑籠に捨てる音は、しなかった。

踏切がカンカンと鳴り始める。

保坂は前を向いて歩いた。

机を打った右の手のひらだけが、じんじんと熱かった。

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