第4話 次は、戻りません
碓井医院は、駅の南口を出て二つ目の角にあった。
一階が診察室で、二階が住まいらしい。
表のガラス戸の内側に、診療時間の紙が貼ってある。
角がめくれていて、そこだけ日に焼けていた。
受付の小窓で、保坂は上着の内ポケットから封筒を取り出した。
折らずに持ってきた。
それでも、片側の折り目だけはやわらかいままだった。
「東和ジムの、保坂です」
「はい。伺ってます」
受付の女性は封筒を受け取り、中を見ずに奥へ持っていった。
待合には長椅子が二つある。
先客が三人いた。
保坂は入口に近いほうの端に腰を下ろす。
向かいの壁に、ポスターが貼ってあった。
頭部を打った後は、激しい運動をお控えください。
下にイラストが添えられている。
自転車で転んだ子どもが、膝を抱えて泣いていた。
横で母親が屈んでいる。
四隅は画鋲ではなく、セロテープ留めだった。
上の二箇所だけ、テープの色が変わっている。
子どもの膝には、絆創膏が一枚貼ってあった。
保坂はその前で、名前を呼ばれるのを待った。
撮影室は、廊下の突き当たりにあった。
身につけている金属を全部外すよう促される。
腕時計を外した。
ポケットから鍵の輪を出して、プラスチックの籠に入れる。
籠の底で、二本の金属が小さく鳴った。
台に仰向けになると、頭の両側をやわらかいパッドで挟まれる。
耳に栓を詰められた。
「二十分ほどです。動かないでくださいね」
筒の中は明るい。
天井が近い。
手を伸ばせば届きそうだった。
音が始まった。
工事の削岩音に似ている。
同じ間隔で、同じ強さで、いつまでも続く。
目を閉じた。
音の数は、数えなかった。
診察室に呼ばれたのは、それから三十分ほどあとのことだった。
碓井先生は四十代に見える。
白衣の袖を、両方とも一度だけ折り返していた。
机にはカルテと、ボールペンが二本置いてある。
壁のシャーカステンに、レントゲンフィルムが二枚挟んであった。
スイッチが入り、白い箱の中が光る。
「これです」
ペンの先が、灰色の中の一点を指した。
まわりより、少しだけ白い。
輪郭は丸くなかった。
「痕があります」
保坂は身を乗り出した。
指されたところを見つめる。
何がどう違うのかは、分からなかった。
「これは、いつのものですか」
「……二年前の、十月です」
「試合ですか」
「六回戦でした。二ラウンドで」
碓井先生は小さく頷いた。
ペンは動かさない。
「そのあとは」
「起きなかったって、聞きました。救急車で運ばれて、何日か入院しました」
「ご自分では、覚えていますか」
「いえ」
碓井先生はカルテに何かを書き留めた。
長くはなかった。
それからペンを置き、保坂のほうへ体を向けた。
「高次脳機能障害です。程度は軽い」
保坂は、その言葉を頭の中でもう一度繰り返してみた。
長かった。
「短期記憶と、注意と、それから」
碓井先生は一度、言葉を切る。
「怒りっぽくなっていませんか」
保坂は、膝の上の自分の手を見下ろした。
「疲れてるだけです」
碓井先生は否定しなかった。
頷きもしない。
カルテへ目を落とし、それからまた保坂を見た。
「今は、戻っています」
「……はい」
碓井先生は、フィルムのほうへ視線を戻した。
「次に同じ強さで頭を打てば」
箱の光が、白衣の胸のあたりを白く照らしている。
「次は、今のようには戻りません」
部屋の外で、電話が鳴った。
二回鳴って、切れる。
保坂は右手の人差し指の関節に、親指をかけた。
押す前に、やめた。
「診断書は、書きます」
碓井先生はそう言って、ボールペンを一本手に取った。
「断れませんから」
保坂は顔を上げた。
「――ただ」
引き出しから所定の用紙を取り出す。
上の一枚を抜き取り、残りは引き出しへ戻された。
「次も、これと同じことを書きます」
保坂は何も言わなかった。
用紙の上を、ペン先が進んでいく。
速くはない。
紙を引っ掻く音だけが、しばらく続いた。
書き終わるまでの時間は、思っていたよりずっと短かった。
「先生」
「はい」
「それ、パンチドランカーってやつですか」
ペンが止まった。
止まっただけで、顔は上がらない。
「その言葉は、私は使いません」
それきりだった。
ペンがまた動き始める。
最後に、印鑑が押された。
保坂は椅子から立ち上がり、頭を下げた。
後ろで、カルテをパタンと閉じる音がした。
会計を待つ待合室は、来たときと同じ長椅子だった。
名前を呼ばれ、小窓で金を払う。
釣りと一緒に、三つ折りの封筒ではなく、剥き出しの紙を一枚渡された。
後ろに人が並んでいた。
保坂は横へ身を引いた。
長椅子に戻り、膝の上で紙を広げる。
細い、几帳面な字だった。
読める字だ。
読めても、意味の理解できない専門用語がいくつかあった。
いちばん上に、氏名の欄がある。
保坂克巳。
自分の字ではない。
保坂はそれを二つに折った。
折り目を、親指の腹で一度なぞる。
上着の内ポケットに滑り込ませた。
そこに入っているのは、もうそれだけだった。
医院を出ると、日が西に傾いていた。
夕方の商店街は人の多い時間帯だ。
買い物袋を提げた主婦が、店の前で立ち話をしている。
魚屋の店先で氷が溶け、道の端を濁った水が流れていた。
駅を通り過ぎる。
線路沿いの道へ出て、いつもの角を曲がった。
雑居ビルの一階に、シャッターが下りている。
その前に、畳んだ段ボールが二つ置いてあった。
よその店のゴミだった。
保坂はそれを、隣の壁際へ無言で寄せた。
ズボンのポケットから、鍵の輪を取り出す。
二本ある。
片方は長くて、片方は角が丸い。
真鍮のほう。
角の丸いほう。
鍵穴に差し込み、回す。
取っ手を持ち上げた。
金属が巻き上がる鈍い音がした。
朝なら、この音は静まり返った商店街の端まで届く。
今は、夕暮れのざわめきに紛れて届かなかった。
腕時計を見た。
五時だった。
階段を上がり、二階のドアを開ける。
壁のスイッチを手探りで押した。
蛍光灯が二度またたいてから、薄暗いリングを照らし出す。
誰もいない。
床の油の匂いが、朝より薄かった。
流しの縁に、雑巾が掛けてある。
今朝、自分が絞ったものだ。
もう乾いていた。
突き当たりの窓は、閉まっていた。
今朝、自分が押し開けた窓だった。
保坂はリングに上がった。
ロープをくぐるとき、内ポケットの紙が胸の骨に当たる。
キャンバスの真ん中まで歩いた。
そこで、ゆっくりと腰を下ろした。




