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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
もう、頭を打たない仕事

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第3話 異常なし

二十二時に、制服へ着替える。

更衣室は警備室の隣にあった。

ロッカーは縦に細く、上着を掛けると裾が下で折れる。


保坂はその折れ目を一度伸ばしてから、扉を閉めた。

内ポケットが、少し重い。

警備室には机が一つある。


電話と、無線と、バインダーが置いてあった。

壁の高いところにはビルの見取り図が貼られていて、四隅のテープが茶色くなっている。

椅子は、座るたびに同じ音で鳴った。


巡回は一時間ごと。

地下の駐車場から始めて、一階の店舗の裏口、二階、三階、四階。

屋上へは出ない。


帰りは非常階段を下りてくる。


同じ順番。

同じ扉。

同じ階段。


懐中電灯は左に持つ。

右手が空くからだ。

十五年、そうしている。


どこも、何も起きない。

警備室へ戻って、バインダーを開く。

巡回チェック表。


左に日付。その右に時刻。

いちばん右に、細長い欄がある。


異常なし。

保坂はそう書いて、下の行へ移る。

一時間したら、また書く。


十五年、同じ字を書き続けている。

「異」の払いが、いつも少しだけ長い。

自分でも分かっている。


直そうと思ったことはない。

これは、朝までを埋めるためのものだ。

仕事だとは思っていない。


夜がそこにあるから、そこにいる。

それだけのものだった。

表の右端に、欄からはみ出した字がある。


誰かの走り書きだった。

インクの色が違う。

細いボールペンで、小さく一行だけ。


異常あり


横に日付が添えてある。

十五年前の、春の日付だった。

保坂が入る前の日だ。


何があったのかは書いていない。

前任者の顔も知らない。

保坂は、その下から自分の欄を書き足していく。


表は三か月で一冊になる。

いっぱいになった分は、月末に会社へ送る。

送ったあと、どうなるのかは聞いたことがない。


十五年ぶん。

どこかにある。

零時の巡回では、誰にも会わなかった。


一時の巡回では、四階の給湯室の電気が点いていた。

消して、戸を閉めて、警備室へ戻る。

異常なし、と書いた。


二時の巡回だった。

非常階段を下りてくる途中、三階と二階のあいだの踊り場に、人が立っていた。

右の肩が下がっている。


考えるより先に、体が動いた。


左が上がる。

腰が回りかけた。

止めた。


踊り場の壁は、上半分がガラスになっている。

外の非常灯が当たって、そこだけ黒く光っていた。

映っていたのは、自分だ。


制服の男が、こちらを向いて、左の肩を上げている。

保坂は腕を下ろした。

手が震えている。


左だった。


指の付け根から先が、細かく震えて止まらない。

反対の手で握った。

力を入れて、離す。


それでも、まだ震えていた。

階段には誰もいない。

下の階の自動販売機が、低く唸っているだけだった。


保坂は残りの階段を下り、警備室へ戻った。


バインダーを開く。

時刻を書いた。

異常なし。


NAKANO・朝昼夜舎は、駅から二本入った通りにある。


朝七時に開く。

保坂は週に三回、ここへ来る。

カウンターに六席。


奥に小さなテーブルが二つ。

朝はたいてい、二人か三人しかいない。

通りにはまだ音が少なかった。


新聞屋の原付が一台、店の前を通り過ぎていく。

保坂はいちばん端に座った。


「焼き魚のやつ、ください」

「はい」


店主は鍋のほうを向いたまま返事をした。

中野という。

厨房で何かを刻む音が続いている。


味噌汁の匂いがしていた。

保坂は水のコップを持ち上げ、半分飲んで、置いた。


「焼き魚のやつ、ください」

中野は手を止めなかった。


「はい」


小鉢が先に出てきた。

そのあとで、中野は水の入ったコップをもう一つ、ことんとカウンターに置いた。

保坂の前に、同じコップが二つ並んでいる。


中野は何も言わず、背を向けて厨房へ戻った。

どちらの氷も、同じ速さで溶けていた。

定食が出てくる。


焼き魚と、飯と、汁と、香の物。

飯は熱かった。

箸を持ち替え、右手の関節を押す。


一本ずつ、いつもの順に。

押すと鳴る。

夜のあいだ、体はどこも痛くならない。


歩いているだけだからだ。

それでも朝になると、腿の裏だけが張っている。

飯を食い終わるころ、中野が布巾を持ってカウンターを拭きに来た。


拭きながら、手元を見たまま言った。


「線路沿いのレンガのビル。一階」


保坂は顔を上げなかった。


「おれも、前に世話になった」


布巾が、保坂の前を通り過ぎていく。

何屋なのかは言わなかった。

保坂も訊かない。


汁の椀を持ち上げて、飲んだ。

勘定を置いて、店を出た。

礼は言わなかった。


帰り道にコンビニがある。

保坂は洗剤の棚の前で足を止めた。


緑の蓋の、細長いやつを一本取る。

取ってから、片手で財布を開いた。


札の後ろに、畳んだレシートが何枚か入っている。

一枚ずつ広げて、端に印字された品名を見ていく。


三枚目に、同じ名前と金額があった。

日付は、四日前だった。

保坂はレシートを畳み直し、財布の奥へ戻した。


手には、同じ緑のボトルがある。棚に戻す理由が、頭の中にうまく組み上がらなかった。


そのままレジへ運び、小銭を払った。

新しいレシートを受け取る。

捨てなかった。


財布を開いて、札の後ろへ入れた。

三月の終わり。

ロードワークの帰りに、信号を一つ見落とした。


渡りかけたところでクラクションが鳴って、それで足が止まった。

車は手前で止まっていた。

運転席の男が何か言っていた。


窓が閉まっていて、聞き取れなかった。

誰にも言っていない。


交差点は、コンビニを出てすぐのところにある。

保坂は洗剤の袋を提げて、白い線の手前に立った。


信号が変わる。

青だった。


向かいから人が歩き出し、横を自転車が滑るように抜けていく。

足が出ない。


膝も、腰も、どこも痛まない。

息も乱れていない。

前は空いている。


ただ、頭から下へ、命令が届かない。

青が点滅を始め、赤に変わった。

買い物袋の中で、洗剤の液体が小さく揺れて、止まる。


保坂は、一歩も動けなかった。

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