第2話 貼り替え
掃除が終わってからの一時間が、保坂の時間だった。
バケツを流しに戻して、蛇口を締める。タオルで手を拭いた。壁の時計は五時四十分を指している。
この時間の二階は、静かだ。商店街のシャッターはまだ半分が下りていて、窓を開けても入ってくるのは、駅のほうへ抜けていく自転車の音くらいだった。松脂の匂いと、床の油の匂いは、朝がいちばん濃い。
壁のホワイトボードは、綺麗に消してあった。名前も、あとから足された一行も、残っていない。
リングに上がる。
鏡は赤コーナー側の壁一面にある。会長が中古で入れたもので、下のほうに斜めのひびが一本走っていた。保坂はいつも、ひびの上に自分の頭が来る位置に立つ。
構えた。左を出す。戻す。半歩下がって、また左。
鏡の中では、遅れない。
左が三つ、右が一つ。頭を振って、また左。息は鼻から吸って、口から細く吐く。十八年、同じ吸い方をしている。
鏡の中の男は、まだ間に合っている。
これを一日に三回やる。三分たって手を下ろすと、肩から先だけが熱かった。
階段の下で、ドアが鳴った。
「先輩、おはようございます」
保坂は鏡から目を離して、その顔を見た。
名前が、一拍だけ出てこない。
「おう」
稲村はもう着替えを抱えて上がってきていた。二十一歳。前の試合は判定で勝っている。バンテージを巻く手が速い。巻きながら、こっちの顔は見ない。
「ミット、お願いします」
「おう」
ミットは面の革が薄くなっていて、手のひらの側に会長の親指の跡がついている。買い替えずに、縫い直して使う。会長の持ち物はだいたいそうだった。
保坂はミットを両手にはめて、リングの中央に立った。
「ワン、ツー」
乾いた音が二つ返ってくる。稲村の右は、肘が最後まで伸びない。伸ばさないほうが速いことを、この子はもう知っている。
「ワン、ツー、返し」
「はい」
左がミットの真ん中に来る。中心を外さない。外さないから、三発が一つの音に聞こえる。
「もう一回。ツーのあと、体を残すな」
「はい」
打たせているあいだ、保坂の手のひらは革の下でじんじんしていた。腕は、上げているだけでいい。稲村の息が上がってくる。息が上がってからのほうが、この子の打ち方は素直になる。
自分は打たない。
ミットを持つ日は、サンドバッグを打たない。十三年、そう決めている。理由を訊かれたことはない。訊かれたら、順番の都合だと答えるつもりでいる。その答えを、まだ一度も使っていない。
ブザーが鳴って、ミットを外した。右の甲を、左の親指で押す。
受付の奥から会長が出てきた。
「保坂。木曜、道具屋に寄れ。縫い直しのミット、上がってる」
「はい」
六時になるころ、あと二人が上がってきた。四回戦の子たちだ。挨拶をして、鏡の前に立って、それから縄跳びを取りに行く。稲村も縄に移って、床が鳴りはじめた。
保坂は雑巾を絞って、窓の桟の溝を拭いた。ここは拭いても拭いても白い粉が出る。十三年、同じところから出ている。
雑巾を洗い、水を止めて手を拭いてから、受付のほうへ行った。
「会長」
「なんだ」
「木曜、なんでしたっけ」
「道具屋。ミット」
会長は雑誌を開いたところだった。顔を上げない。一度目と、まったく同じ言い方だった。
「はい」
ロッカーは、奥の三畳ほどの部屋にある。扉はない。棚が八つ並んでいるだけで、名前は書いていない。使う者が勝手に決めている。
保坂のは、右から二番目。その隣を稲村が使いはじめて、ひと月になる。
靴の袋が、棚の端に寄っていた。奥に置いてあった軟膏の缶が、手前に出ている。丸めたバンテージの置き場所は、はじめは真ん中だった。
押せば、戻る。
保坂は靴の袋を持ち上げて、そのまま端に置いた。
棚に入っているのは、靴と、軟膏と、バンテージと、汗を拭くタオル。十三年で増えたのは、タオルの枚数だけだった。
隣の稲村の靴は、まだ白い。買ったばかりで、踵の内側に詰めてあった紙をまだ抜いていない。
上着を着て、階段の上まで来たとき、受付の奥から声がした。
「保坂」
「はい」
「病院、まだ行ってねぇな」
「行きます」
会長は引き出しを開けて、白い封筒を出した。表に、会長の字があった。ほかの紙に挟まれていたらしく、片側の折り目だけがやわらかくなっていた。
「ずっと世話になってるとこだ。俺の名前で行け」
「はい」
字の下に、日付が入れてあった。
三日前だった。
保坂は封筒を折らずに、上着の内ポケットへ入れた。
階段を下りかけたところで、会長がもう一度呼んだ。
「お前、あれ替えとけ」
受付の横の壁に、雑誌から切り抜いた紙が画鋲で留めてある。日本ランキングの表だ。月に一度、新しい号が出る。
十三年、替えるのは保坂だ。
机の上に、今月の号が置いてあった。付箋も何もない。会長は毎月そこへ置くだけで、何も言わない。
保坂はページを開いて、罫線に沿ってハサミを入れた。角で一度だけ持ち替える。曲がらない。はじめの何年かは外側を大きく切って、あとから縁を落としていた。今は一度で切れる。
縄跳びの音が止まった。
稲村が横に来て、壁を見上げていた。
階級ごとに、名前が縦に並んでいる。一位から順に下へ。字は小さい。どの名前の前にも、ジムの名前がついている。
稲村が見上げているのは、いちばん上のあたりだった。
「先輩」
「おう」
「ここ、何回勝ったら載るんですか」
保坂は切り抜きを持ったまま、壁を見た。
「……知らねえ」
「そうすか」
稲村は縄跳びに戻った。床がまた鳴りはじめる。
画鋲を四つ抜いて、古い表を剥がした。
保坂の名前は、そこに一度も載ったことがない。
剥がしたところだけ、壁の色が濃い。四隅には小さな穴が集まっている。十三年ぶん、少しずつずれながら開いた穴だった。
古い表は四つに畳んで、屑籠へ落とした。先月のぶんだ。
新しいのを当てて、四隅に画鋲を戻す。上の二つを先に留めると、紙がまっすぐ落ちる。
その隣に、もう一枚ある。
色の褪せたポスターだった。全日本新人王決定戦。フェザー級。十四年前の十二月の日付があって、下のほうに名前が印刷されている。紙の下の角は湿気で波打っていて、そこだけ画鋲が打ってない。
ジムの壁で、印刷された保坂の名前は、それだけだった。
あとは全部、誰かの手書きだ。
内ポケットで、封筒が胸に当たっている。
保坂は画鋲を、親指で押し込んだ。




