↑ページトップへ
表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
もう、頭を打たない仕事

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

158/159

第1話 まだ、立っていた

四ラウンドの中ほどで、左が入った。


当てにいった左ではない。


相手の右が来る、と体が先に決めて、その形のまま出た左だった。


拳から手首へ、当たった感触が返ってくる。


相手の足が、半歩下がった。


半歩だけだった。


それでもロープが揺れて、リングの床が一度たわむ。


二階席のどこかで声が上がった。


何を言っているかは聞き取れない。


ただ、声の高さが変わった。


まだ打てる。


そう思えたことに、保坂克巳は気づいた。


相手の右手は、見えている。


十五でジムの扉を押した日から、まず相手の右を見ろと言われて、そのとおりにしてきた。


今も見える。


なのに、こちらの腕が上がるころには、相手の右はもう戻っている。


見えてから動くまでのあいだに、何かが一つ挟まっている。


四分の一拍。


時計には出ない遅れで、頭の中では間に合っている。


インターバルのブザーが鳴った。


コーナーの椅子に腰を下ろすと、氷の入った袋が首の後ろに当てられる。


マウスピースを抜かれて、水を含んで、バケツに吐く。


セコンドがワセリンを額に伸ばす。


会長の手が両方の頬を挟んで、顔を上げさせた。


「保坂。左、もう一回だ」


「はい」


五ラウンドは、開始から相手が出てきた。


効かされたぶんを、取り返しに来る出方だった。


保坂は下がって、背中がロープに触れた。


触れたところから体の重さが半分になる。


腰が浮いて、足が使えなくなる。


それは分かっている。


分かっているのに、足が前に出ない。


左、右、左、右、左。


さらに三発。


肘で二発止める。


一発は額を掠めた。


残りは入った。


八発。


数えていたわけではない。


ただ、数えているほうが楽だった。


レフェリーが両手を広げて、体のあいだへ割り込んできた。


保坂は立っていた。


膝は落ちていない。


足の裏は、まだキャンバスを掴んでいる。


腕も上がる。


上がるのだから、続けられる。


「まだ、立ってました」


レフェリーは頷かなかった。


保坂の目を覗き込んで、二本の指を立てて、左右に動かした。


保坂はそれを追った。


追えた。


追えたのに、レフェリーは両手を胸の前で交差させて、それを二回、大きく振った。


ゴングが鳴って、拍手が起きた。


長くはなかった。


相手が寄ってきて、頭を下げた。


保坂も下げた。


相手の額のあたりに、自分の左が当たった赤い痕が残っていた。


控室は、廊下の突き当たりにあった。


パイプ椅子が四つと、長机が一つ。


コンクリートの壁には、よそのジムの選手の名前をマジックで書いては消した跡が、うっすら残っている。


セコンドが黙って氷嚢を出した。


保坂は受け取って、右のまぶたに当てた。


腫れているのは自分で分かる。


指の下で、皮膚が余っている感じがする。


会長がしゃがんで、グローブの紐にハサミを入れた。


テープを切る音が、この部屋でいちばん大きかった。


「保坂」


「はい」


「うちのジムじゃ、もう無理だ」


ハサミは止まらなかった。


会長は顔を上げない。


指が太くて、爪が短い。


その手つきだけは、十八年、一度も変わらなかった。


保坂は、右手の関節を一本ずつ押した。


人差し指から順に。


バンテージを巻くときと同じ順番だ。


押すと、いつもと同じ音がする。


「あと三年、ライセンスあります」


会長は紐を切り終えて、グローブを引き抜いた。


中から出てきた手は、白いバンテージが汗で灰色になっていた。


壁の向こうで、次の試合のゴングが鳴った。


「タイのプロモーターが、日本人の六回戦を探してるって話は、ある」


保坂は顔を上げた。


会長はもう片方のグローブに取りかかっていた。


ハサミの先が、紐の下へ入っていく。


「やめとけ。あっちは、当てにいくやつしか呼ばん」


それきり、会長は何も言わなかった。


壁に、ホワイトボードが掛かっている。


上に「本日の出場選手」と書いてあって、下に名前が並んでいる。


試合が終わるたびに、係の人が横に結果を書き足していく。


保坂の欄にも、もう書き足されていた。


名前の下に、一行だけ、別の字が足してある。


マジックの色も違う。


元・全日本新人王


保坂はそれを見てから、上着を着た。


会長は立ち上がって、切った紐を屑籠へ落とした。


ドアの手前で足を止めて、振り返らずに言った。


「月曜、病院行け」


翌朝。


日曜の四時五十分だった。


外はまだ暗い。


街灯の下だけが白くて、その白いところを順に通っていく。


アパートからジムまで、歩いて十二分。


歩くたびに、ポケットで鍵が二本鳴る。


アパートの鍵と、ジムの鍵。


十三年、輪から外したことがない。


右のまぶたは、朝になってから腫れが上がっていた。


上の睫毛のあたりが重い。


角を曲がるとき、右側だけ、少し遅れて景色が入ってくる。


駅の反対側、商店街の外れの雑居ビル。


一階の間口にシャッターが下りていて、その脇に、二階へ上がる階段の入口がある。


真鍮の鍵は、角が丸くなっている。


同じ鍵はジムにもう一本あって、事務机の金庫に入っている。


会長のだ。


使っているのを見たことはない。


鍵穴に差して、回して、シャッターの取っ手を持ち上げる。


巻き上がる金属の音が、閉まったままの商店街の端まで届く。


十三年、この音で一日が始まる。


階段を上がって、二階のドアを開けた。


壁のスイッチを手探りで押す。


蛍光灯が二度またたいてから、リングを照らした。


誰もいない。


バケツに水を張って、雑巾を絞る。


ロープをくぐって、赤コーナーの側から順にキャンバスを拭いていく。


昨日の砂ぼこりと、松脂と、汗の乾いたものが、雑巾の色を変えていく。


四隅まで拭いたら、雑巾を洗って、もう一度絞る。


サンドバッグは、下だけが太っている。


吊るしてある以上、砂は下へ落ちる。


上のほうを握ると布が余る。


口の紐を解いて、下の砂を掬って、上から詰め直す。


詰めたら、また紐を締める。


手のひらが白くなる。


六時に、四回戦の子たちが来た。


最初に入ってきたのは稲村だった。


「先輩、おはようございます」


「おう」


あとから二人。


三人とも、着替える前に鏡の前に立って、自分の顔を見る。


それから縄跳びを取りに行く。


床が鳴りはじめる。


誰も、昨日の試合の話をしなかった。


保坂は突き当たりの窓のところへ行った。


掛け金が堅い。


手のひらの付け根で二度叩いて、外した。


重い窓枠を、外へ押し開けた。

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。