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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
山の口

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第六話「山之口」


 公民館の戸を開けたとき、話し声がやんだ。


 元は分校の教室だった部屋に、長机が三つ並べてある。座っていたのは十人ほどだった。十六戸のうち、昼のうちに出てこられる家はもうそれくらいしかない。


 風呂敷包みを抱えていた。腕が痺れて、坂の途中で二度、道端に置いて休んだ。


 「ハルさん」


 区長さんが立ち上がった。「今日は、その、なんですか」


 わたしは長机の端に風呂敷包みを置いた。中の帳面が置いた拍子にずれて、乾いた音を立てた。


 「聞いてほしいことが、あります」


 自分の声が思ったより低く出た。三十年、人に向かって用件を言ったことがなかったのだと、言ってから気がついた。


 区長さんは座らなかった。手元の紙を見て、それから壁の時計を見た。


 「ハルさん、あのね。議題に上がっとらんことは、この場では」


 「じゃあ上げりゃええ」


 戸沢さんだった。奥の壁際で、湯呑みを持ったまま言った。区長さんは口を開けて、閉じて、それから手元の紙に何か書き足した。あとで覗いたら、いちばん下に「その他の件」と書いてあった。字はきれいだった。


 「……では。その他の件、ということで」


 わたしは風呂敷の結び目をほどいた。


 「帳面です。一年に一冊で、今年が三十一冊目です」


 誰も何も言わなかった。区長さんの後ろで、誰かが息を吸う音がした。


 背には何も書いていない。表紙に年を書きはじめたのは途中からで、最初の何年かは書いていない。どれがいつの分かは、焼け方でも分かる。古いものほど飴色になって、角が丸くなっている。


 「山の口で数えたものです。朝、五時から七時まで。夕方は四時から、日が入るまで。入った人と、出た人を書いてあります」


 「ハルさん、それはもう、みんな知っとる」


 区長さんの声は、怒っていなかった。困っているだけだった。この人たちは三十年、ずっと困っていた。わたしが困らせていた。


 「知っとると言われました。でも、誰も見たことはないでしょう」


 わたしは帳面を一冊取り出して、開いた。正の字が二列に並んでいる。左が入った人、右が出た人。線の太さが、日によって違う。


 「数えてください。わたしが数えたんじゃ、だめなんです」


 自分でも、なぜそう言ったのか分からなかった。ただ、そう言わなければいけない気がした。わたしは自分が正しいかどうかを、人に訊いたことがなかった。訊けば否まれると分かっていたし、否まれれば、次の朝に立てなくなる気がしていた。


 「ハルさん」区長さんが言った。声は低かった。「こう言うたら悪いが、それはあんたが書いたもんでしょう。あんたが書いて、あんたが数えて、合わんと言うとる。それじゃあ、合わん証拠にはならんでしょうが」


 そのとおりだと思った。わたしが毎晩、自分に言ってきたのと同じ言葉だった。返す言葉は持っていない。だから、束のほうを手のひらで押して、区長さんの前へ寄せた。


 長い間があった。板の間が足の裏から冷えてくる部屋で、誰かが上着の袖を鳴らした。それから戸沢さんが立って、束から一冊抜いた。区長さんが舌打ちのような音を出して、それでも一冊取った。あとは誰も動かなかった。


 動いたのは、戸沢さんとこの孫だった。壁にもたれて携帯をいじっていたのが、二冊まとめて抱えて、長机に広げた。


 「これ、正の字ですよね。一個で五」


 「そうです」


 「じいちゃん、そっち声出して。俺、書くからよー」


 最初は笑い声が混じっていた。年寄りが二人と若いのが一人、冷えた部屋で古い帳面を声に出して読んでいるのだから、笑うのが普通だと思う。


 「入り、十二。出、十一」


 「入り、九。出、八」


 途中で笑い声がやんだ。孫が紙の端に書いていた手を止めて、顔を上げた。


 「じいちゃん、次」


 「入り、四。出、三」


 「その次」


 「……入り、六。出、五」


 区長さんがめくる音が速くなった。自分の帳面のずっと後ろの方を開いて、それからいちばん前を開いて、また後ろを開いた。指を舐めて、めくって、また舐めた。


 「奥山さん、そっちどうです」


 「……一や」


 「こっちも一です。ずっと一です」


 孫が紙を持ち上げた。鉛筆の跡だらけの、公民館の使用予定表の裏だった。


 「毎日、一。三十年分、一日も欠けずに一です」


 孫はそこで一度、紙から顔を上げた。


 「毎日ちがう誰かが消えとる話じゃないですよね。毎日、一人ぶんだけ合わん。それが三十年続いとる」


 誰も答えなかった。


 孫は帳面をもう一度見て、それから、部屋の誰にともなく言った。


 「一人、足りません」


 言われた言葉が、部屋の中で少し浮いていた。誰も打ち消さなかった。区長さんも、打ち消さなかった。


 山の口で指を四本折って止めた、あの人の手を思い出した。あのときは、数えたのがわたしひとりだった。


 戸が鳴った。誰かが開けたのかと思って振り向いたが、閉まったままだった。それまで沢から上がってきていた風が、山の方から下りてきていた。誰も気に留めなかった。


 帰りは、孫が風呂敷包みを家まで持ってくれた。


 翌朝、いつもどおり五時に山の口へ上がった。白い息が出た。柿はまだ落ちきっていない。


 林道の先が、いつもより明るく見えた。上の方で人の声がしていた。


 降りてきたのは戸沢さんと、孫と、あと二人だった。長靴が泥まみれで、袖に杉の葉が刺さっている。三十年、誰も入らなかった沢の方から降りてきていた。


 戸沢さんが、片手に何か提げていた。


 長靴だった。ゴムが白く粉を吹いて、底の模様はほとんど無くなっていて、中に沢の砂が詰まっていた。片方だけだった。


 「岩の下に噛んどった」と戸沢さんが言った。「引っ張ったら、これだけ出た」


 わたしは受け取った。片方だけは、思ったより軽かった。踵の内側のゴムだけが、薄く擦れていた。


 区長さんが来た。長靴を見て、それから、わたしの顔を見た。


 「……ハルさんとこの」


 そこで止まった。口を開けたまま、次が出てこないという顔をしていた。後ろにいた女の人が、あ、と小さく言って、両手で口を押さえた。


 全員ではなかった。何人かは、みんながどうして黙っているのか分からないという顔で、長靴を見ていた。それでいいと思った。


 戸沢さんが、長靴の底を見たまま言った。


 「正志ちゃん」


 三十年ぶりに、わたし以外の人がその名前を口に出した。


 わたしは泣かなかった。泣くところだと分かっていたけれど、出てこなかった。ただ、長靴の中の砂を指で少し掻き出して、それから、掻き出すのをやめた。


 家へ帰った。土間で長靴を新聞紙の上に置いて、手を洗った。


 茶の間の戸棚を開けて、二段目の右奥から茶碗を出した。三十年、誰にも触らせなかった茶碗だった。縁が一か所だけ薄く欠けていて、指を回すと、そこで必ず引っかかる。目をつぶっていても分かる。


 台所で洗った。洗うところは毎日と同じだった。同じ順で回して、洗い終わってから、いつもより長く水を切った。


 戸棚には戻さなかった。茶の間の卓に布巾を敷いて、その上に、伏せて置いた。裏返した茶碗の底は、思っていたより白かった。


 日が入って、沢の下から暗くなった。部屋は冷えた。


 夜、わたしは土間へ下りた。


 玄関の引き戸に錠がついている。三十年、一度も回していない錠だった。いつ帰ってきてもいいようにしていた、というほど立派なものではない。掛ける、という考えが浮かばなくなっていただけだった。


 回した。固くて、途中で引っかかって、二度、手を持ちかえた。掛かるときに、かちり、と思ったより大きな音がした。


 その音を、土間に立ったまま聞いていた。外は沢の音しかしなかった。


 翌朝、外で車の音がした。


 戸を開けると、坂の下に白い軽のバンが停まっていて、慈恩さんが立っていた。黒いスーツで、煙草を持っていた。灰は落とさずに、小さな持ち歩きの灰皿に入れていた。目は閉じていた。


 空き家の方に、荷物が二つ出してあった。今日、出ていくのだと分かった。


 慈恩さんが言った。


 「昨日の夜は、どうでした」


 「……戸締まりを、しました」


 「そうですか」


 それきりだった。慈恩さんは煙草を灰皿でもみ消して、蓋を閉めて、ポケットに入れた。それから車に乗って、坂を下りていった。エンジンの音が沢の音に混ざって、聞こえなくなった。


 土間に柿の葉が一枚吹き込んでいた。わたしはそれを拾って、外へ出した。


 その日から、住人が三十一人増えた。


 当時の姿のままで…


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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