第3話 夜の人
十一時半に、ビルの前に着いた。
起きたのは十時だ。夜の店をやっていると、朝はそのぶん後ろへずれる。二十年以上やって、ずれ方は毎日同じところで落ち着いた。
家からは歩いて十二分ある。正面から入れば一階のホールで、右に店のドア、左にエレベーター、奥に旧事務所の扉がある。俺は通りに面した店のドアのほうへ回った。
ビルの前の桜は、三分ほど咲いている。色が薄くて、遠目には枝に霞がかかっているように見えた。
風がある。まだ冷たい。上着は一枚多く着ている。
店のドアを引くと、ベルが鳴った。
コーヒーの匂いがした。その下に、バターと焼いたパンの匂いが沈んでいる。夜にこの匂いはない。夜は氷とレモンと酒の匂いだ。同じ部屋で、昼と夜が入れ替わる。
カウンターに三人。テーブルに二組。美月がドリッパーの前に立っていた。裕子が皿を重ねて裏へ入っていく。
「おはよう」
美月が言った。手は止まらない。
「ああ」
夜の仕込みには早い。誰にも訊かれていないのに、俺は頭の中で理由を並べた。
窓ぎわの椅子でミーが寝ていた。昼はだいたいそこにいる。俺が横を通っても起きない。夜になると、どこかへ行っている。
手を洗った。カウンターの上、壁の高いところに神棚がある。二度手を打って、頭を下げた。埃は月に一度、裕子が払う。俺は手を打つだけだ。
流しの脇に段ボールが三つ積んである。朝のうちに酒屋が置いていったやつだ。いちばん上の箱に、伝票がテープで留めてあった。
剥がして、開ける。
ジンが四本。ウォッカが二本。ラムが三本。ウイスキーが六本。伝票の数と合っている。
伝票の隅に日付と判が入っている。判はいつも少し斜めに押してある。まっすぐな日は、いつもと違う人間が配達に来ている。
箱から出して、床に並べた。ラベルを手前に向ける。棚に上げるのは夜だ。昼のうちに棚を出すと、美月の背中の後ろが狭くなる。
同じ銘柄でも、届いた順に前から使う。古いほうを後ろへ回すと、後ろだけ残る。
「パパ、そこ通る」
「ああ」
瓶を持ったまま半歩下がった。美月がポットを持って抜けていく。戻ってきて、また逆へ抜けた。
昼のこの店の道は、レジの前からカウンターの内側を通って、裏の流しへ出る。一日に何十回も通る。俺はその線に入らない。壁ぎわの一畳ぶんが、昼のうちに俺が使っていい場所だ。
昼の道具は上の段にある。夜の道具は下の段だ。段を分けたのは美月で、分けてから物の行方不明が減った。
空の箱を潰して、紐で縛った。
グラスは前の晩に洗って伏せてある。ロックが十二。タンブラーが十八。脚のついたものが十。一つずつ取って、窓の灯りに透かした。水の跡が二つ残っていた。
布は二枚使う。拭く布と、最後に持つ布だ。指の跡は、拭いたあとについたものがいちばん残る。
脚のついたグラスは、脚を持って拭かない。折れる。胴を持って、布を中で回す。
拭き直して、また伏せた。
道具を出した。シェーカーが二つ。メジャーカップ。ストレーナー。バースプーンが三本ある。一本は柄が曲がっていて、それだけ使わない。捨てないまま十年になる。
シェーカーは冷やしてから使う。冷やすのは夜だ。昼のうちは乾かして、口を上に向けておく。
椅子の高さは昼と夜で変えない。変えると客が慣れない。座面の縁が、六つとも同じところで擦れている。
製氷機を開けた。氷は足りている。夜に使うぶんと、昼に美月が使うぶんが、同じ機械から出る。昼がよく出た日は、夜のはじめに氷が薄い。今日は多かったらしい。
氷は角のあるほうから使う。丸くなったものは下へ沈む。手を入れて、下から掬い上げて混ぜた。
冷蔵庫の下の段を見た。レモンが六つ。ライムが四つ。オレンジは切れている。
膝をついて、いちばん下の引き出しを引いた。古い栓抜きが入っている。柄の塗りが剥げて、下の金が出ている。使わないが、捨てていない。
床が硬い。
二十四年前、俺は膝をついて、頭を下げた。額を床につけて、助けてくださいと言った。それだけだ。
引き出しを閉めて、立った。膝が鳴った。五十四になると鳴る。
ドアが開いて、客が二人入ってきた。
「いらっしゃいませ。二名様ですね。こちらへどうぞ」
美月の声は昼の声だ。低くしない。語尾を落とさない。
俺は瓶を持つ手を止めて、壁ぎわに寄った。注文を通す声が頭の上を過ぎていく。ブレンドが二つ。トーストが一つ。
美月は客の手元を見ている。カップに手が伸びる前に、水を置く。教えたことはない。
美月がミルに豆を入れた。音が鳴っているあいだ、俺は動かない。ミルの音に瓶を重ねると、客の声が消える。前に一度、それで注文を取り違えさせた。
豆はその都度挽く。挽き置きを出さないのは美月の決めごとだ。夜の俺には関係がない。関係がないので、口を出したことはない。
音が止んでから、棚の下の在庫を数えた。
ボトルは背の順ではなく、使う順に置いてある。手前が毎晩開けるもの。奥が、ひと月に一本のもの。
奥の三本は、いつも同じ順に並んでいる。減りは手前より遅いのに、ラベルの角だけ擦れている。左から二本目の残りが、瓶の肩より下にあった。
メモに一本と書いた。
美月がカップを二つ運んでいって、戻ってきた。
「今日、まだ来てないよ」
「そうか」
メモに書き足した。ラムを一本。
カウンターのいちばん奥の席は、椅子が入ったままだった。皿もカップも出ていない。朝に美月が拭いたきり、何も置かれていない。その席だけ、椅子の背が壁から少し離れている。座る人間が、いつも同じ引き方をするからだ。
潰した箱を抱えて、ホールへ出た。
箱は裏の通用口から出す。ホールを横切って、奥へ回る。
旧事務所の扉の前に、子供が座っていた。
床の模様の、四角ひとつぶんの中に膝をそろえている。膝の上に、手をそろえている。輪郭も、髪も、着ているものも、ぜんぶ同じ青だ。ホールの灯りが当たっても、色は変わらない。こちらを見た。俺も見た。
「邪魔するぞ」
返事はない。
通用口の鍵を開けて、箱を外に出した。ゴミ置き場に、朝の分の袋が二つ残っていた。縛った箱をその脇に立てかける。向かいの屋根に日が当たっている。鍵をかけて戻ると、まだ同じところにいた。
昔からこの階にいる。訊いたことはない。
店へ戻った。
レモンを二つ、氷入れの脇に出した。切るのは夜だ。切ってから時間が経つと、角が丸くなる。
シロップの瓶を振った。底に固まりがある。湯を張った鍋に立てて、脇へ置いた。
オリーブの瓶を開けて、汁を足した。ピックを数える。十九本あった。数え終わってから、数えた数を覚えていないことに気づいて、もう一度数えた。十九本だった。
上の階の人が入ってきて、カウンターの端に座った。注文は毎回同じらしい。美月が何も訊かずに湯を落としはじめる。俺は瓶を床に置いて、道具にかけた布を巻き直した。
正午を過ぎて、席が埋まった。
昼のピークは十二時から一時だ。夜のピークは十一時から十二時になる。頭数は昼のほうが多い。金は夜のほうが動く。
瓶の前を離れて、裏の流しに立った。皿が溜まっていた。洗って、水を切って、籠に上げる。それなら、この店の道を邪魔しない。
裕子が横に来て、布巾を替えた。
「お昼、食べる?」
「あとで」
「あとって、いつ」
「二時」
裕子は笑って、行った。二時に食べたことは、この十年で二度あるかどうかだ。
一時が近づくと、客が減った。テーブルが二卓空いて、カウンターが一つ空いた。美月がレジを打つ。釣りを渡して、頭を下げる。ドアのベルが鳴って、少しして、また鳴った。
流しを出て、メモを見た。ジンを一本。ラムを一本。奥の一本。酒屋には夕方に電話をする。
伝票を三枚まとめて、輪ゴムで留めて、レジの下の箱に入れた。夜の伝票は別の箱だ。同じ店で、箱だけ二つある。昼のぶんは美月が数える。夜のぶんは裕子だ。俺は数えない。締めの日は月末で、それも裕子がやる。
カウンターの天板を、端から拭いた。木目に沿って、一度で拭く。往復させると跡が残る。
時計を見た。
文字盤の下に、開店と閉店の時間を書いた紙が貼ってある。七時から七時。九時から一時。俺の字と、美月が書き直した字が並んでいる。
針は一時を三分過ぎていた。
瓶のラベルを手前に直した。それから、眉のあいだを親指で一度押した。
夜まで、まだ八時間ある。




