第二話「戸棚の、二段目」
朝の分を数え終えて家へ戻ると、わたしはまず手を洗った。指がかじかんでいて、湯が出るまでのあいだ、蛇口の下で手をこすり合わせた。十月の水は、もう夏の水ではない。
それから、茶の間の戸棚を開けた。
この戸棚は、わたしが嫁に来たときにはもうこの家にあった。ガラスの引き戸は下のほうが白く曇っていて、右の端を押さえながらでないとうまく動かない。一段目には来客用の湯呑みと、貰い物の皿が伏せてある。三段目には重箱と、もう使わなくなった土鍋。
二段目の、右の奥に、茶碗がひとつある。
白い地に、藍の細い線が二本まわっているだけの茶碗だった。縁のところが小さく欠けている。町の陶器屋で、これがいい、と息子が自分で選んだ。春から山へ出るようになった年で、自分の飯茶碗くらいは自分で決めると言った。もっと立派なのが並んでいたのに、いちばん安いところから取った。稼ぎはじめたばかりの者が言うことではないと思ったけれど、そういうことを言う子だった。
わたしはそれを両手で持って、台所へ運んだ。水を流して、指の腹で内側をひとまわりなでて、布巾で拭いた。埃のほかに、付いているものは何もない。それでも、洗わずに置くと、埃はだんだん厚みを持つ。だから毎朝洗う。そう自分に言ってきた。
洗って、拭いて、二段目の右の奥へ戻す。それだけのことに、このごろは少し時間がかかるようになった。しゃがんだあと立ち上がるのに、戸棚の縁へ手をつく。
戸を閉めると、曇ったガラスの向こうで、茶碗の白がぼんやりとにじんだ。
昼前に、下の家の奥さんが回覧板を持って上がってきた。
この人は、玄関で用を済ませたことがない。「ごめんくださいよ」と言い終わらないうちに靴を脱いで、板の間を通って、茶の間の座布団に座っている。悪い人ではない。雪が降れば、うちの前まで掻いてくれる。夏には胡瓜を置いていく。
「ハルさん、これ、判子」
わたしは卓の上の判子を取って、朱肉に当てて押した。回覧板には、公民館の掃除の日のことと、猪が下りてきているから夕方は気をつけろということが書いてあった。
いちばん上に、町の福祉の紙が一枚、新しく挟まっていた。ひとり暮らしのお年寄りを、近所で見守りましょう、という紙だった。下のほうに手書きの表があって、見に行く人の名前と、見に行かれる人の名前とが、二列に並んでいる。
奥さんはそれを指でなぞって、途中で笑い出した。
「これ、うちがハルさんとこを見に来て、ハルさんが上の家を見に行って、上の家がうちを見に来ることになっとるんよ」
「そうかね」
「ぐるっと回るだけだねえ」
奥さんは、まだその輪を指でなぞっていた。二周ほどなぞってから、紙を戻して、回覧板を閉じた。
それから勝手に立ち上がって、「お茶いれるわ」と言った。うちの台所のどこに何があるか、たぶんわたしよりよく知っている。
湯呑みは一段目にある。けれどこの人は、上から順に目で追っていって、途中で手を止めた。二段目の、右の奥。
「あら」
手が伸びた。
わたしは、自分でも驚くほど早く立っていた。膝が痛むのを忘れていた。伸びてきた手の前に自分の手を入れて、茶碗を取った。取ってから、取ってしまった、と思った。
奥さんは目を丸くして、それから笑った。
「なあに、それ。いいもんなの」
「……いや」
「これ、誰の?」
わたしは茶碗を胸のところで持ったまま答えた。
「息子の」
奥さんは、少しのあいだ黙った。わたしの顔を見て、茶碗を見て、それからまた笑った。
「やだ、ハルさん。子どもさんはおらんかったでしょう」
その笑い方に、意地の悪いところはひとつもなかった。人の物忘れを、ちょっとからかっただけの声だった。わたしが寄り合いの日を一日ずらして言ってしまったときにも、この人はこう笑う。同じ、あたたかい笑い方だった。
わたしは何も言わなかった。
奥さんは一段目から湯呑みを二つ出して、急須に湯を入れて、話はもう柿のことになっていた。今年は生りがいい、去年より重い、けれど渋のがまじっとる、渋のは鳥が先に分かるから鳥の食わんのは渋だ、と。
わたしは茶碗を膝の上に置いて座っていた。
三十年のあいだに、こういうことが何度あったか、数えたことはない。数えるのは山の口の前でだけだと、いつのころからか決めている。数えたらきりがないから、というのとは少し違う。数えて、それが三十年ぶんの束になってしまったら、そのときわたしのほうが間違っているという証拠になりそうで、こわいのだと思う。
この人は嘘をついていない。区長さんも、寄り合いの人たちも、嘘をついていない。嘘をつく理由がない。理由のないことを、十六戸の全部がそろってするはずがない。
そこまで考えると、いつも同じ場所に来る。
では、わたしはどうなのか。
土間のほうで、戸の開く音がした。
「ごめんください」
男の声だった。この集落では聞いたことのない、はっきりした声だった。年寄りに向かって出す、大きくてゆっくりの声ではなかった。
奥さんが先に立って行った。わたしは座ったまま、板の間の向こうを見た。
黒いスーツを着た、痩せた人が土間に立っていた。色が白い。この集落では見ない白さだった。目を閉じている。眠っているのとも、まぶしがっているのとも違う閉じ方で、こちらが見ているあいだ、一度も開かなかった。
煙草の匂いが、かすかにした。手に小さな金属の入れ物を持っていて、火はどこにも持っていなかった。
昨日の夕方、山の口の前を通っていった人だ、とわたしは思った。数えているわたしの横を、何も言わずに通り過ぎた人。区長さんが言っていた、慈恩さん、というのはこの人だろう。
「外れの空き家をお借りしている者です。回覧板を、どちらへ回せばいいのか分からなくて、伺いました」
「ああ、あんた、上の家の親戚の」奥さんが手を打った。「回覧はね、あそこは入っとらんのよ。空いとる家だもんで。だから、そのまま持っといてくれればいいの」
「はい」
「それか、うちに寄こしてくれれば回すから」
「はい。助かります」
語尾を伸ばさない人だった。この地域の者は、返事のしまいが少し伸びる。伸びたところに、相手の顔色をうかがう間が入る。その間が、この人の言葉にはなかった。
奥さんは、それからいつもの調子で喋った。町から来たのか、いつまでいるのか、寒くなるから布団は足りるのか、風呂は沸くのか。慈恩さんは、ひとつずつ「はい」「ええ」「なるほど」と返して、いくつかは答えなかった。答えなかったことに、奥さんは気づいていないようだった。
それから、慈恩さんは茶の間のほうを向いた。
目は閉じたままだった。
わたしは、膝の上の茶碗を、少しだけ体の陰に入れた。
何か聞かれる、と思った。何を聞かれても答えないつもりだった。この人は町の人だから、たぶん親切な聞き方をする。親切な聞き方をされたときのほうが、あとで長く残る。
けれど慈恩さんは、頭を下げただけだった。
「お邪魔しました」
それだけ言って、土間から出ていった。戸の閉まる音も静かだった。
「愛想のない人だねえ」
奥さんは笑って、湯呑みの茶を飲み干して、じゃあまた、と言って回覧板を持って帰っていった。玄関を出てからも、猪に気をつけなよ、と一度、外から言った。
ひとりになると、家は急に音がなくなる。時計の音だけが茶の間に残った。
わたしは台所へ立って、茶碗をもう一度洗った。
今朝、洗ったばかりだった。洗う必要はなかった。それでも水を流して、指の腹で内側をひとまわりなでた。水は冷たくて、指の先が赤くなった。縁の欠けたところに、指がひっかかる。この欠けは、買った日にはもうあった。安いところから取ったから、と息子が言った。
布巾で水気を拭いて、二段目の右の奥へ戻して、戸を閉めた。
三十年のあいだ、この茶碗を持った人間は、わたしのほかにいない。誰にも持たせなかった。落とされたら困るから、とずっと自分では思ってきた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




