第8話「名前を、書かない」
申請書は、それから何日か、机の上にあった。
急かす者は、いない。
締め切りが、あるわけでもない。
書いて出せば、名簿に載る。
出さなければ、何も起きない。
制度は、申請しない人間を、咎めない。
ただ、名乗らせないだけだ。
試験の朝の、あの若い試験官の声を、思い出す。
途中退室の扱いまで、制度では決めてあった。
人がどう席を外すか迄、枠にしてある。
でも、受かったのに、名簿に来ない人間のことまでは、たぶん、決めていない。
申請をやめておきます、と書く欄は、この紙の、どこにもなかった。
埋めるものは、ぜんぶ、埋めてきた。
学科も、論述も、面接も。
残っているのは、この一枚の、いちばん上。
あとは、五文字。
それだけで、この手続きは、完成する。
書けばいい。
佐藤士恩。
書いて、出せば、国のお墨付きのついた肩書きが、手に入る。
けれど、書かなかった。
祖母のために、ここまで来た。
それは、本当だ。
受けたのも、通したのも、あの引き出しの、二枚目のためだった。
その引き出しを開ける人は、もう、いない。
見せる相手のいない資格が、机の上に、残った。
だから、書く理由は、消えた。
けれど、書かない理由は、そこではない。
ぼくの十五年は、この紙の外側で覚えたものだ。
喫茶店の隅も、祓いも、拝みも、名刺の裏に隠したものも、全部。
名簿に五文字を置けば、そのぶん、ぼくにできることは、減る。
十五年かけて増やしたものを、看板一枚と引き換えに、削ることになる。
割に、合わない。
それだけのことだった。
ぼくは、ペンを、机に置いた。
かたん、と、小さな音がした。
不思議と、迷いは、なかった。
書かない、と決めた瞬間に、この十五年が、ぜんぶ、ぼくの手元に残った。
そして、氏名欄を白いままにしたその瞬間、胸の中の、行き場のなかった約束が、すっと、ほどけた。
果たせなかった、のではない。
果たす相手が、いなくなった。
それは、違うことだ。
ぼくは、祖母との約束を、破ったわけじゃない。
ただ、その約束は、祖母と一緒に、静かに、終わったのだ。
それでいい、と思えた。
終わったものを、無理に、続けなくていい。
ぼくは、申請書を、白いまま、合格通知と重ねて、封筒に戻した。
捨てなかった。
破りもしなかった。
机の、いちばん下の引き出しに、そのまま、入れた。
受かった、という事実だけが、どこにも登録されないまま、ここにある。
それから、誰もいない事務所で、閉めた引き出しに、一礼した。
深く、頭を下げる。
誰に、というわけでもなかった。
この十五年に。
喫茶店の隅で会った、たくさんの人に。
祖母に。
書かなかった名前に。
たぶん、その、全部に。
この日は、軽口を、言わなかった。
あー、めんどくせぇ、の一言で、片づけることも、できた。
いつものぼくなら、いくらでも、するりと出てくる言葉だった。
でも、何を言っても、嘘になる気がした。
語尾が、伸びる気がした。
祖母に、本当のことを、一つも言えなかったぶん、この一回くらいは、言葉で、覆いたくなかった。
外に、出た。
秋晴れだった。
どこかの庭の金木犀が、路地まで匂っている。
ぼくは、駅までの道を、ゆっくり歩いた。
急ぐ用は、もう、なかった。
ぼくの試験は、とっくに終わっていて、ぼくの登録は、始まらないまま、終わっていた。
駅前に、小さな印刷屋があった。
ぼくは、ふらりと、そこに入った。
何を思ったわけでもない。
ただ、名刺を、作り直そう、と思った。
祖母に渡した、あの一枚は、もう増えない。
だったら、次に持つ名刺は、あの一枚とは、違うものにしよう、と。
慈恩 キャリアアドバイザー。
国家資格の、名前では、ない。
本名でも、ない。
ただの、呼び名だ。
誰の許可も要らず、名簿にも載らない、ぼくが、勝手に名乗るだけの言葉。
アドバイザー、なんて、資格でもなんでもない。
相談屋、と言ってもよかったけれど、それだと、祖母の、あの名刺と、違いすぎる気がした。
だから、少しだけ、面影を、残した。
人の相談にのる仕事、というところだけは、変えなかった。
それで、いい、と思った。
祖母に渡した名刺は、もう、増えない。
仏壇の引き出しの、あの一枚が、最後の一枚だ。
ぼくは、いつか、あの引き出しから、それを、取り出すだろう。
国家資格の判子は、ついていない。
でも、祖母が、何度も読んで、近所じゅうに自慢した、その一枚だ。
それで、十分だった。
祖母が信じてくれた「人の相談にのる仕事」だけは、残る。
国が、判子を、押そうが、押すまいが。
看板がなくても、資格がなくても、名前が、名簿に、なくても。
必要な人は、たどり着く。
ぼくは、その人だけを、見る。
それで、いい。
――九年後。
看板のない、十階建てのビルの、いちばん上。
朝、一階のNAKANOに顔を出して、それから、上がってくる。
もう、九年、それを続けている。
窓のブラインドは、半分、閉めたまま。
灰皿と、飲みかけのグラス。
四十九になった、燃え尽きたみたいに白い男が、今日も、椅子に、だらしなく座っている。
目は、閉じている。
引き出しの奥には、いまも、古い名刺が一枚ある。
キャリアコンサルタント、佐藤士恩。
国家資格の烙印は、ついていない。
ついていなくて、いい。
こつ、こつ、と、扉が、鳴った。
誰かが、たどり着いたのだ。
看板も出していないこのビルの、いちばん上まで。
ちゃんと、必要な人が。
ぼくは、目を閉じたまま、いつもの、少し間延びした声で、言う。
「あー。どうぞー」




