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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
キャリアコンサルタント

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第7話「士恩」


 秋に、あの封筒が届いた。


 学科、合格。


 実技、合格。


 外したはずのロールプレイも、採点表のどこかには、ちゃんと収まっていたらしい。


 そして、通知の下に、もう一枚。


 登録申請書。


 話は、机の上に戻る。


 氏名欄は、まだ、白い。


 受かっただけでは、キャリアコンサルタントは、名乗れない。


 この紙に氏名を書いて、申請して、国の名簿に登録されて、初めて、そう名乗れる。


 名簿に載らなければ、合格は、ただの合格だ。


 試験に受かった、という事実だけが残って、肩書きは、手に入らない。


 逆に言えば――この五文字を書いて、出しさえすれば、それで、終わる。


 氏名欄。


 書くべき名前は、分かっている。


 佐藤士恩。


 さとう、しおん。


 祖母が、呼んだ名前だ。


 士恩、と、あの人はいつも、きちんと呼んだ。


 省略もしないし、あだ名でも呼ばない。


 士恩、ごはんよ。


 士恩、寒くないの。


 士恩、ちゃんと食べてる。


 朝も、夜も、その名前で呼ばれた。


 ぼくの本当の名前を、ちゃんと名前として、毎日、口に出してくれたのは、たぶん、この世で、あの人だけだった。


 熱を出した夜も、あの人は、その名前で呼んだ。


 士恩、大丈夫かい、と、額に冷たい手を置いてくれた。


 学校でうまくいかず、黙って帰った日も、士恩、おかえり、と、いつもと同じ声で迎えてくれた。


 何があっても、あの人の中で、ぼくは、士恩だった。


 ジオンでも、慈恩でもない。


 ただの、士恩だった。


 名前というのは、本当は、そういうものなのかもしれない。


 誰かが毎日、呼んでくれて、初めて、その人のものになる。


 名簿に書かれた字は、名前じゃない。


 ただの、記号だ。


 あの人が呼ばなくなった今、ぼくの本当の名前は、どこにも、鳴っていない。


 その名前が、いつからか、外では、違う音になった。


 喫茶店で、相談に来た客が、名刺を読み違えたのだ。


 「しおん」を、「じおん」と読んだ。


 ジオンさん、でしたっけ、と。


 訂正するのも、めんどくさかった。


 どちらでも、ぼくには同じことだった。


 相手も気にも留めない。


 ジオンさん、ジオンさん、と呼ばれるうちに、それが、そのまま屋号になった。


 ビルの名前にまで、その音を使った。


 誰かが、地の文で書くときには、慈しみの恩、と書いて、慈恩、なんて当て字まで付けた。


 誰が言い出したのか、もう覚えていない。


 士恩。


 ジオン。


 慈恩。


 もとは、一つの名前だった。


 祖母がくれた、一つの名前だ。


 それが、聞き違えられ、当て字を重ねられて、ぼくの本当の名前は、いちばん奥に、隠れてしまった。


 ジオンと呼ばれるたび、その底で、士恩、と、誰にも聞こえない音が、小さく鳴っている。


 祖母が呼んだ、あの音が。


 ぼくは、目を閉じたまま、名前のことを、思い出していた。


 本名を出すたびに、それは、どこかに書き留められる。


 役所。


 契約書。


 登録簿。


 ペン先で名前を滑らせれば、どこかの枠組みの従属物になる。


 無機質な名簿の、ただの狭い一行。


 そこへ固有の番号が振られ、あとは冷たいルールに従って管理されるだけだ。


 昔は、それが、当たり前だと思っていた。


 名前は、書くためにあって、人は、どこかに属して、生きるものだ、と。


 でも、二十四のあの年、逃げるように会社を辞めて、アジアを渡り歩いたとき、ぼくは、もう一つ、覚悟を決めた。


 安宿の、埃っぽい天井の下だった。


 部屋の隅の壁から、乾いた蜘蛛の巣が白く張っている。


 ファンが、ゆっくり回っていた。


 外からは下水の匂い


 眠れない夜に、ぼくは、これから先の自分のことを、ぼんやり考えていた。


 会社の名札を外したら、ぼくには、何も残らない気がして、少し、怖かった。


 肩書きがなければ、ぼくは、ただの、人に嫌がられる、変な力を持った男でしかない。


 でも、そのとき、逆のことを思ったのだ。


 肩書きが、ぼくを守ってくれたことなんて、一度だってなかった。


 会社の名札は、ぼくを二十時間、働かせただけだ。


 どこかに属していたことで、楽になったことなんて、なかった。


 終バスにも乗れず。満喫暮らしだった頃を思い出す。


 だったら、いっそ、どこにも属さないほうがいい。


 線を引く側に、ならない。


 人を、肩書きで見ない。


 価値観を押し付けない。


 自分のことも、肩書きで、守らない。


 だから、目を閉じる。


 だから、看板を出さない。


 だから、名簿の、外で生きる。


 あの夜、天井のファンを見ながら、ぼくは、そう決めた。


 それが、ぼくの精神を支える一本の硬い柱になった。


 名前は、便利だ。


 呼ばれれば、振り向く。


 渡せば、相手が、安心する。


 祖母を、笑わせることも、できる。


 でも、名前は、檻にもなる。


 国家資格者。


 登録番号がついて、有効期限があって、更新手続きがある。


 そして――佐藤士恩。


 それを、この欄に書いた瞬間、ぼくは、また一つ、カテゴリの中に、入る。


 国の名簿の、一行になる。


 どこにも属さない、と決めた、あの夜の覚悟の、外側へ、自分から、はみ出していく。


 祖母が、生きていたなら。


 それでも、書いたかもしれない。


 あの引き出しに、二枚目の名刺を入れて、皺の中の目を細めて、すごいねぇ、と言ってもらえるなら。


 ぼくは、名前くらい、書けた。


 名前が檻になろうが、そのくらいのこと、あの人の一言と引き換えなら、安かった。


 でも、それは、書く理由だ。


 書ける理由では、ない。


 あの十五分で分かったのは、受かるか落ちるか、ではなかった。


 登録するというのは、あの物差しの中に、自分の名前を置くことだ。


 名乗れば、その名前の形をした相談が来る。


 その名前の形をした答えを、返すことになる。


 相手より先に踏み込むのは、そこでは、外れたことになる。


 それに、名乗れば、名乗った先から人が来る。


 国のお墨付きのついた肩書きを頼りに、ありきたりな相談の列ができる。


 十五年、ぼくは、そうならないように、看板を出さずにやってきた。


 必要な人だけが、口伝てに、たどり着ければいい。


 来る人を選べる、というのが、ぼくの唯一の贅沢だった。


 名簿に名前を置けば、その贅沢から、先に無くなる。


 ぼくが十五年かけて覚えたのは、看板のない場所でしか使えないやり方だった。


 書けば、できることが増えるわけじゃない。


 減るのだ。


 ぼくは、ようやく、分かった。


 この氏名欄は、手続きのための、欄ではなかった。


最後までお読みいただき、ありがとうございました。


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