第6話「面接」
申し込んでいたのを、キャンセルするのを忘れていた。
祖母を送った、その春のこと。
国家資格になって、一回目の試験は夏にある、と知らせに書いてあった。
願書を取り寄せて、写真を貼って、十五年の実務経験を書いて、出した。
辞める理由なら、いくらでもあった。
でも、やめなかった。
相手がいなくなっても、約束だけは、宙に残っている。
行き場のない約束を、ぼくは、捨て方が分からないまま、抱えていた。
学科と論述の試験は、八月二十一日。
日曜日だった。
試験当日の朝、ぼくは、いつもより早く起きた。
九階の部屋は、がらんとしている。
灰皿は、洗って、伏せてあった。
ここでは、煙草を吸わない。
吸うのは、上の階の、事務所だけだ。
誰に言われたわけでもない。
ただ、そう決めていた。
黒いスーツに袖を通して、鏡の前で、ネクタイを結んだ。
四十の男の顔が、鏡の中にいる。
燃えカスみたいに白い、痩せた顔。
これから試験を受けに行く顔には、とても見えなかった。
電車を乗り継いで、蝉の鳴く構内を歩いた。
試験場は、駅から続く緩やかな坂を上りきった先、広大な大学の敷地の片隅にある別館が、その日の会場だった。
ぼくはたぶん、この教室でいちばん歳を食った受験者だった。
周りは若かった。
二十代の半ば、いっても三十そこそこ。
養成講座を出てきたばかりの顔をしている。
いや、全体数は少ないが、年寄りも数人混ざっている
どうでもいい情報か。と自嘲気味に呟く。
付箋の飛び出した分厚いテキストを開いて、何色にも塗り分けたマーカーの色ごと、前の晩に詰め込んだものをこぼさないように抱えている男の子。
前の席の女の子は、口の中で何かを繰り返していた。
傾聴、受容、共感、自己一致。
呪文みたいに、小さく。
斜め後ろの男は、貧乏ゆすりで机を鳴らしている。
その中でぼくだけが、何も開いていなかった。
机の上には鉛筆と消しゴム、受験票。
それだけだ。
四十のおっさんが黒いスーツを着て、背もたれに寄りかかって目を閉じている。
いや、じじいか…
たぶん、寝ているか、余裕をかましていると思われている。
本当は、どちらでもなかった。
ただ、目を開ける理由がなかっただけだ。
目を開ければ、この教室の若い連中の、脇に浮かぶものまで見えてしまう。
今日は、見たくなかった。
試験官が資料を配り終えて、教壇の前に立った。
若い男だった。
事務的な声で、携帯の電源だの、途中退室の扱いだのを読み上げていく。
前の席で、鉛筆の音がした。
途中退室の説明まで、几帳面に書き取っているらしい。
書いても、点にはならない。
途中退室の話のところで、ぼくはなんとなく、その言葉を耳に留めた。
途中で出ていく人間のことまで、ちゃんと決めてある。
制度というのは、そういうものだ。
人がどう外れるかまで、先回りして枠にしてある。
「――解答用紙に、氏名を記入してください」
ぼくは、目を薄く開いて、書いた。
佐藤士恩。
鉛筆は、止まらなかった。
答案の名前は、名簿ではない。
ここに書いても、ぼくは、まだ、どこにも属さない。
採点のための、ただの五文字だ。
そのことを、このときのぼくは、深く考えもしなかった。
学科は、淡々と終わった。
制度のことも、理論のことも、頭には入っている。
十五年やってきたことの、名前だけを、後から教わっているような試験だった。
ぼくが喫茶店の隅で、手探りでやってきたことに、一つ一つ、ちゃんとした名前がついている。
傾聴。
ラポール。
自己一致。
知らない言葉に、既に知っている中身が、貼りついていく。
答えは、ほとんど迷わなかった。
昼の休みを挟んで、午後は、論述だった。
事例を読んで、どう応じるかを、字で書く。
字を並べるのは、得意なほうだ。
書けた。
廊下では、若い受験者たちが答え合わせをしていた。
第何問は、こうだよね。
いや。あれはひっかけだ。
不安そうな声が、行き交う。
ぼくは、その輪から離れて、窓の外を見ていた。
目を、閉じて。
蝉の声が、遠くで束になっていた。
この子たちは、これからこの資格を手に入れて、名刺を作って、どこかの会社の相談室にでも座るのだろう。
それは、いいことだ。
ちゃんとした道だ。
ぼくには、なかった道。
うらやましい、とは思わなかった。
ただ、まぶしくて、少し、遠かった。
問題は、面接だった。
面接は同じ日には組まれていなかった。
一週間、間を置いて、別の会場で行われる。
学科と論述が八月二十一日で、実技の面接は、その次の週末。
受験票に、そう印刷されていた。
制度は、几帳面に、日を分けてある。
一週間後、ぼくは、もう一度、黒いスーツを着た。
実技の、ロールプレイ。
小さな部屋に呼ばれる。
相談者の役をする人がいて、試験官が二人、横で採点している。
制限時間は、十五分。
その十五分で、ぼくが、どれだけ「正しく」相談にのれるかを、見られる。
相談者役は、若い女性だった。
台本を渡されているらしく、少し硬い口調で、切り出した。
「あの……転職を、考えていて」
ぼくは、目を閉じたまま、聞いた。
やることは、分かっていた。
まず、受け止める。
うなずいて、繰り返す。
それは不安ですよね、と共感する。
話を要約して、返す。
相手の気持ちが整理されるように、開かれた問いを、重ねていく。
教科書どおりの、正しい傾聴。
答えは、全部、頭にあった。
この十五分で高い点を取る方法を、ぼくは、たぶん、この部屋の誰よりも知っている。
でも、できなかった。
声の裏側が、聞こえてしまう。
目を閉じていようが、相手の表情や服装の色を見ていまいが関係ない。
この仕事を十五年も続けていれば、口先から出た台詞の一枚剥がれたその下にあるものが、頼みもしないのに耳の奥へ滑り込んでくる。
この人は、転職の相談に来ているわけじゃない。
台本の中の人を演じる役のはずなのに、その役の、さらに奥に、本物の相談事が、空け透けて見えていた。
演じている本人も、たぶん気づいていない、その人自身の何かが。
ぼくは、言ってしまった。
「あー……あなた、ね、辞めたいんじゃ、ないんですよ」
相談者役が、止まった。
台本の、次の行を、見失った顔だった。
「辞めても、いいよって。誰かに、言ってほしいだけ。でしょう」
台本から、外れた。
相手の目が、少し泳ぐ。
試験官の二人が、手元の採点用紙から顔を上げるのが、気配で分かった。
「でも、いざ人に言われたら、たぶん、困るんですよ。人に決められると、腹が立つ。だから、自分で決めたことに、したい。……ぼくが、辞めろって言っても、あなたは、辞めない。あなたは、あなたが決めたときにしか、動かない。だから、ぼくは、言わないんですよ」
沈黙が、落ちた。
相談者役の女性が、少しだけ、うつむいた。
演技ではない気配が、そこにあった。
台本の悩みの下に隠していた、自分の本当のことに、触られた人の顔だった。
ぼくは、それを、閉じた目の裏で感じていた。
ああ、この人は今、ほんの少し、背負っていた荷物を少しだけ手放せたのだと感じた。
その女性は、膝の上の台本を、そっと置き直した。
その手が、少しだけ迷っていた。
役を続けるべきか、それとも、と。
ぼくは、それ以上、踏み込まなかった。
試験の、十五分だ。
この人を本当に軽くするのは、今日の、ぼくの仕事じゃない。
相談としては、間違っていない。
むしろ、これがいちばん、その人のためになる返し方だと、ぼくは思っている。
決めさせず、ただ、決めていい、と分かる場所まで、連れていく。
十五年、そうやってきた。
でも、試験としては、正しくない。
それが、はっきり分かった。
この十五分で測られているのは、相手をどれだけ救えるか、じゃない。
決められた手順を、決められた順で、どれだけ外さずに、なぞれるか、だ。
相手より先に核心へ踏み込むのは、多分、減点対象だ。
ぼくのやり方は、この物差しでは、測れない。
測れないものを、無理に載せようとすれば、ぼくは、自分のやってきたことを、少し、嘘にしなければならなくなる。
十五年やってきたことは、この紙切れでは、証明しきれない。
面接が終わって、外に出ると、八月の光が、まだ高かった。
落ちたとは、思わなかった。
外したのは、あの面接の一場面だけだ。
学科も、論述も、埋めるものは埋めた。
ぼくは、多分、受かる。
受かって、それから、どうするのか。
蝉の声の中を駅へ歩きながら、ぼくは、そのことを、考えないように、していた。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




