第5話「ちゃんとした仕事」
祖母が息を引き取ったのは、
季節がまだ春を拒み、空気の底に痛いほどの冷たさが沈んでいるころだった。
電話が来たのは、明け方だった。
近所の人が見つけてくれた。
眠るように、と、その人は言った。
実際、ほとんど、そんな逝き方だったらしい。
布団の中で、顔を、少しだけ窓のほうへ向けて。
事故ではない。
事件でもない。
呪いでも、憑きものでも、怪異でもない。
だから、ぼくには、どうしようもなかった。
もし、悪いものが憑いていたなら、ぼくは飛んでいって、落とした。
もし、呪われていたなら、解いた。
死にかけていたなら、言葉で引き戻した。
ぼくには、そのくらいの力はあると思う。
でも、寿命は、ぼくの力でも、届かない。
祖母の中に、最初から書いてあった数字が、ただ、そこで終わった。
それだけだ。
それだけのことに、ぼくは、少し混乱している。
人の死には慣れているはずなのに。
祖母は、ぼくが十三のとき助けてくれて、そのまま、大学を卒業する迄、ぼくのそばにいてくれた。
卒業してからもぼくを支えてくれた。
二十七年間…
ぼくにとって、まともに、ちゃんとお別れができた、たった一人の家族だった。
葬式は、小さかった。
親戚が、ぽつぽつと集まった。
早速、遺産の話をしている。
線香の煙と、黒い服。
折り目のついた、めったに着ない喪服の匂い。
祭壇の中央には、小さな遺影があった。
少し若いころの祖母が、こちらを見て、控えめに笑っている。
ぼくが選んだ写真だった。
宗教の集まりで撮ったものだ。
他に、笑っている写真が、あまりなかった。
写真を選ぶのは、ぼくの役目になった。
祖母の家の、古いアルバムを、一枚ずつめくった。
若いころの祖母。
旦那さんと並んだ祖母。
誰かの結婚式の、隅にいる祖母。
どの写真でも、祖母は、少し緊張した顔で、まっすぐこちらを見ている。
笑っているものは、なかなか、なかった。
あの人は、写真を撮られるのが、苦手だったのだ。
やっと見つけたのが、集会の集まりの、集合写真だった。
端のほうで、隣の人と何か話しながら、少しだけ笑っている。
その部分を、引き伸ばした。
通夜の晩、ぼくは、棺のそばに、独りで座っていた。
線香を絶やさないように。
夜が更けて、会館の人が仮眠を取りに行ったあと、ぼくは、目を開けた。
誰も、いなかったからだ。
祖母の顔を、ちゃんと見ておこうと思った。
安らかな、いい顔だった。
二十七年、いちばん近くにいて、ぼくは、この人の脇の数字を、一度も口に出さなかった。
最後まで、言わなかった。
言わずに、すんでしまった。
それが、よかったことなのかどうか、その晩も、ぼくには、分からなかった。
ぼくは、泣かなかった。
いつもの顔で、いちばん端の席に座っていた。
目は、閉じていた。
誰も、ぼくを見なかった。
あの糸目の、痩せた、無愛想な孫。
親戚のあいだでも、ぼくは、よく分からない人間で通っていた。
都会で、相談屋だか、占い師だか、そんなことをしているらしい。
結婚もしていない。
それくらいの認識だった。
ぼくは、その認識のままでいさせてもらった。
何一つ、説明しなかった。
焼香が済んで、人が減ってきたころ、祖母の友人の一人が、ぼくの隣に来て、座った。
祖母と同じ町の言葉で、その人は言った。
「あんたのおばあちゃん、よう言うてたよ」
ぼくは、目を閉じたまま、聞いた。
「あの子は、人の相談にのる、ちゃんとした仕事をしてるのよ、って。会うたんびに、言うとった。写真の名刺、あるやろ。あれ、みんなに見せてなあ。自慢しとったよ、ほんまに」
ぼくは、笑った。
「あー。そうですかー」
それだけ、言った。
胸の中で、何かが、静かに折れた。
音は、しなかった。
ただ、今まで、気づかないうちに支えになっていたものが、すっと、なくなった感じがした。
四十にもなって、まだ、あの人に支えられていたのだ、と、亡くなってから初めて知った。
祖母は、最後まで、ぼくの本当の仕事を知らなかった。
人に数字が見えることも、色が見えることも、祓えることも、体が少しずつ人でなくなっていくことも、何一つ、知らなかった。
二十七年、いちばん近くにいて、ぼくは、いちばん、この人に何も知らせなかった。
祖母が知っていたのは、あの名刺一枚だけだ。
キャリアコンサルタント、佐藤士恩。
人の相談にのる、ちゃんとした仕事。
それだけを信じて、それを近所じゅうに自慢して、逝った。
それで、よかったんだろうかと疑問に思う。
一度くらい、本当のことを言ってから、見送るべきだったんだろうかと。
おばあちゃん、ぼくはね、人の脇に数字が見えるんだよ。
あの宗教の集まりに、本物は一人もいなかったんだよ。
――そう打ち明けて、また、あの悲しい顔をさせて、それでも、隠しごとのないまま送るべきだったのか。
それとも、最後まで名刺の表側だけ見せて、あの顔を一度もさせずに送れたのが、正しかったのか。
ぼくには、分からなかった。
今も、分からない。
たぶん、これから先も、ずっと分からない。
分からないまま、祖母は、いなくなった。
葬儀の帰り道、ふと、思った。
――受かったら、見せてね。
あの約束の、見せる相手が、もう、いない。
仏壇の引き出しに、二枚目の名刺を入れる意味も、それを自慢してくれる声も、もう、どこにもない。
祖母がいないなら、この資格を、ぼくは、いったい誰に見せればいいのだろうか。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




