第2話「言えなかったこと」
十三のとき、ぼくは一度、死にかけた。
三日と、二十分ほど。
天井を見上げて目を覚ましたとき、最初に見えたのが病室の照明で、次に見えたのが、周りの機械だった。
点滴の袋。
心臓を測る線の、細かい上下。
何が起きたのか、そのときはまだ分からない。
分かったのは、その時間を置いた後だった。
家には、帰らなかった。
血のつながった家族はいた。
いたけれど、あそこには戻れなかった。
戻れば、また同じことが起きる。
ぼくの体が壊れたのも、心が一度止まったのも、もとをたどればあの家の空気のせいだった。
理由は、ここでは書かない。
書かなくても、ぼくの体が覚えている。
児童相談所が動いて、ぼくを引き取ったのは、祖母だった。
遠いところから、半日かけて来てくれた。
病室の戸を開けて、ぼくの顔を見たとき、祖母は何も聞かなかった。
可哀想に、とも、大変だったね、とも言わない。
ただ、痩せた手でぼくの手を握って、「うちに、おいで」と、それだけ言った。
旦那とはとうに死に別れて、独りで暮らしている、小さなおばあさんだった。
古い家だった。
畳と仏壇、使い込んだ湯呑み。
柱には、誰かの背丈をつけた古い傷が、いくつも刻んである。
台所のほうからは、いつも出汁の匂いがしていた。
最初の晩、祖母は湯気の立つ味噌汁を出してくれて、ぼくがそれを一口すすったら、向かいでじっと見ていた。
おいしい、と言ったら、祖母はほっとした顔をした。
あんまり静かな家で、しばらくのあいだ、ぼくは自分の息の音がうるさく感じたくらいだ。
前の家のことは、あまり覚えていない。
覚えていないことにした、というほうが、近いかもしれない。
あの家では、ぼくにだけ見える数字の話も、体の具合の話も、誰も聞かなかった。
聞くどころか、それを都合よく使おうとする大人ばかりだった。
だから、ぼくの心が一度、ぱたりと止まったとき、正直、ほんの少しだけ、ほっとした。
もう、あそこにいなくてよくなる、と。
祖母の家で、ぼくは初めて、何も怖がらずに眠った。
夜中に目を覚ましても、聞こえるのは、柱時計の音と、祖母の寝息だけだった。
それが、こんなに静かなものだとは、知らなかった。
その家で、ぼくは、見えてはいけないものを見るようになった。
正確には、前から見えていたものが、はっきりしてきた。
人を見ると、その脇に、四角い窓のようなものが浮かぶ。
名前があって、数字が並んでいる。
数字の大きい人と、小さい人がいる。
どうやら、これは誰にも見えていないらしい、ということも、そのうち分かった。
祖母は、変わった信心を持っている人だった。
月に何度か、同じ信心の人たちと集まって、手を合わせに行く。
ぼくも何度か、連れていかれた。
広間に大人が何十人も座って、ありがたい話を聞いて、涙ぐんでいる。
ぼくはその一人一人の、脇の数字を、こっそり見ていた。
誰も、たいした数字を持っていなかった。
見える、と言っている人も、通じる、と言っている人も、みんな、ぼくが病院で見た機械の音と同じくらい、ただの人だった。
本物は、一人もいない。
そのとき、子どものぼくは、妙に静かな気持ちで思った。
本物がいないなら、ぼくが自分でやるしかない。
この力を、誰かに教わることは、たぶん一生ない。
それから、ぼくは独りで始めた。
図書館の本を、片っ端から読んだ。
神社のお祓いに、こっそり紛れ込んだ。
祝詞や、印や、所作を、一つずつ試して、脇に見える数字が動くかどうかを、確かめる。
動いたものだけを、ノートに書き留めた。
動かなかったものは、捨てる。
誰も正解を教えてくれないから、自分の目だけが頼りだった。
神道も、仏教も、修験の行も、宗派なんて関係なく、効くものだけを拾い集めた。
それが、ぼくの修行になった。
祖母は、ぼくが夜中に庭で素振りをしていても、何も聞かなかった。
ただ、朝になると、味噌汁を温め直してくれた。
ぼくが何をしているのか、たぶん、分かっていた。
分かっていて、聞かないでいてくれた。
それが、あの人の優しさだった。
その帰り道、ぼくは、祖母に話してしまった。
歩きながら、ぽつぽつと。
人に数字が見えるんだ。
名前も、力の強さも、見える。
さっきの広間の人たちのことも、みんな見えた。
子どもだったし、話す相手が、祖母しかいなかった。
信心の帰り道だったから、言いやすかったのかもしれない。
祖母は、笑わなかった。
そんなわけないでしょう、とも、疲れてるのね、とも言わない。
祖母は、見えないものがある、ということを、はなから信じている人だった。
だから、ぼくの話も、そのまま信じた。
信じて――そして、悲しそうな顔をした。
ほんの一瞬だった。
すぐにいつもの顔に戻って、そう、すごいねぇ、士恩は、と言いながら、家に着くと湯呑みにお茶を注いでくれた。
でもぼくは、あの一瞬を見てしまった。
祖母が、ぼくの話を信じたからこそ、悲しんだ、ということを。
普通のおばあさんなら、妄想ね、で済ませたかもしれない。
済ませてくれれば、ぼくは縛られずにすんだ。
この子は少し変わった夢を見る、くらいで、放っておいてくれた。
けれど祖母は、信心のある人だったから、信じてしまった。
この子は普通ではなくなった。
もう、こちら側には戻ってこられない。
神さまか仏さまの近くに、行ってしまった。
――そう思ったから、悲しい顔をした。
信じたから、悲しんだ。
十三のぼくは、たぶん、人生でいちばん大事なことを、そこで一つ決めた。
この人にだけは、もう、心配をかけない。
ぼくのことで、あの顔を、二度とさせない。
それから、肝心なことを言わなくなった。
数字が見えること。
人の善し悪しが、色になって見えること。
祓えるようになったこと。
憑いたものを落とせること。
年を追うごとに、自分の体が、少しずつ人間から外れていくような感じがすること。
祖母が信じてしまう、と分かっていることは、全部、飲み込んだ。
学校であったことも、うまくいかない付き合いのことも、危ない橋を渡ったことも、家では「べつに」「ふつう」で片づけた。
祖母は優しかった。
だからこそ、言えなかった。
黙るのは、簡単だった。
慣れると、息をするのと同じになる。
困ったことがあっても、大丈夫だよ、と言えば、祖母は安心する。
めんどくさいなあ、とだけ言っておけば、それ以上は心配されない。
ぼくは、そういう喋り方を身につけた。
軽い言葉で、重いものを覆う喋り方だ。
あとで気づいたことがある。
何かを隠すとき、ぼくの語尾は、勝手に伸びる。
「〜ですよー」「〜ですからー」と、間延びする。
自分では気づかない。
ずっとあとになって、人に指摘されて、初めて知った。
あれはたぶん、あの十三のときに始まったんだと思う。
祖母に、本当のことを言わないと決めた、あの日から。
祖母に信じてもらえた日から、ぼくの沈黙は始まった。
二十七年、その沈黙は、ぼくの中で一度もほどけなかった。
最後までお読みいただき、ありがとうございました。




