第8話 半分
十階の本の塔は、三つ減った。
棚を足したわけではない。
並べ直しただけだ。
背の高い本を下に、薄いのを上に。
それだけで、床が空く。
男は、それを見ても何も言わなかった。
目を閉じたまま、うちわを使っていた。
「岩城さん、今日は、九階の廊下の電球、お願いしますー」
「はい」
「あと、この箱、一階に届けといてくださいー。ぼく、行けないんで」
行けないんで、と、この人はいつも言う。
九階の脚立の上で、ふと、手を止めた。
持てるから、一人で持つ。
そう思って生きてきた。
持てば人が巻き込まれるから、もう持たない。
辞めてから、そう思っていた。
その二つしか、なかった。
あの廊下の角で、九十キロは、通らなかった。
通したのは、力ではなかった。
三つ目が、あった。
二人で持てばいい。
それだけだ。
電球を替えて、脚立を畳んだ。
一階の店にも寄った。
カウンターの向こうの人に箱を渡すと、どうも、と受け取った。
それで用は済んだらしかった。
階段の踊り場で、電話をかけた。
三回鳴って、班長が出た。
「おう、生きてるか」
「はい」
「どうした」
「戻りたいです」
息を吸う音が聞こえた。
班長は現場を出たところらしく、後ろでトラックの扉が閉まる音がした。
「そうか」
「ただ、条件があります」
「ほう」
「重い物は、二人で持たせてください」
しばらく、何も返ってこなかった。
「……岩城」
「はい」
「それ、こっちが言った話だぞ」
「はい」
「所長が言ったやつだ。お前、あのとき、はいって言って、次の週に辞表持ってきたろうが」
「はい」
「じゃあ、何が違うんだ」
おれは、踊り場の壁を見た。
目地が新しい。
手が入っている。
「あのときは、言われました」
「うん」
「今は、おれが言ってます」
電話の向こうで、班長が短く笑った。
「お前が条件出すの、初めてだな」
「そうすか」
「所長に言っとくわ。ただ、すぐは無理だぞ。組み方から変えるんだから、人繰りがある」
「はい」
「あと、残暑のあいだは外す。これは譲らん」
「はい」
「秋だな」
秋、と言われて、おれは頷いた。
電話では見えないのに、頷いていた。
「日野が喜ぶわ」
「……もう、会いました」
「なんだ、あいつ。何も言わんかったぞ」
班長は、それから少し黙って、言った。
「岩城。前の話だけどな。おれ、お前に一人でいけるだろって、何回言ったかな」
「数えてないです」
「おれもだ」
電話が切れた。
十階へ戻って、男に言った。
「秋から、前の会社に戻れるかもしれません。まだ、決まってないですけど」
「はい、はい」
「決まっても、こっちは続けます」
「はい、はい」
「……辞めるとは、言ってないです」
「聞いてましたよー」
男は、麦茶を注いだ。
二つ注いで、一つをおれのほうへ押した。
「岩城さん」
「はい」
「あー、まだ、ありましたねー」
何がです、と聞かなかった。
代わりに、前から聞きたかったことを聞いた。
「なんで、最初に本棚を頼まなかったんですか」
男は、少し首を傾げた。
「んー。……めんどくせぇ、から?」
同じ答えだった。
二回目に聞いても、意味が分からなかった。
分からないまま、麦茶を飲んだ。
家に帰ると、母が玄関で靴を脱ぐところだった。
両手に袋がある。
片方から、米の袋の角が出ている。
五キロだ。
おれは、手を出した。
「半分」
母が、こっちを見た。
「え」
「半分持つよ。そっちの、重いほう」
母は、袋を一つだけ差し出した。
軽いほうだった。
言い直そうとして、やめた。
この人は、二十九年、そうしてきた。
今日一日で変わる話ではない。
二人で、廊下を歩いた。
台所まで、六歩ある。
一人なら、二秒で終わる。
十秒かかった。
袋を下ろして、母の肘を見た。
紐の跡は、今日も、残っていた。
冷蔵庫を開けて、麦茶を出す。
コップを、二つ出した。
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次の章は、慈恩の起源に迫ります。
以下制作ノートネタバレ注意
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