第7話 大丈夫でしたか
送ったのは、二行だ。
――遅くなった。
おれは大丈夫だった。
――手、どうだ。
返ってきたのは、思ったとおりの一行だった。
――大丈夫っすよ
やっぱりな、と思った。
その下に、もう一行、続いた。
――今どこですか
その晩は、寝つきが悪かった。
返事を打ってから、画面を伏せて、また開いた。
何度か開いた。
次の日の夜、駅の改札で待った。
日が落ちて、まだ暑い。
アスファルトが、昼のぶんを吐き出している。
日野は、電車を二本乗り継いで来た。
私服だと、思っていたより痩せて見えた。
「岩城さん、でかいっすね」
「知ってるだろ」
「いや、久しぶりに見ると、あらためて」
駅前のベンチに座った。
自販機の灯りだけが白くて、そのまわりに虫が集まっている。
商店街のほうは、もうシャッターが下りていた。
自販機で、缶のお茶を二本買った。
一本を渡すと、日野は左手で受け取った。
右手は、膝の上にある。
「開けてもらっていいすか」
言い方が軽かった。
おれは、缶を受け取り直して、二本とも開けて、片方を返した。
「握るのがまだなんすよ。曲げるのはいけるんですけど」
「痛むのか」
「雨の前は。あと、朝」
「そうか」
「箸は持てます。字は、まだ汚い」
もともと汚かっただろ、と言いかけて、言わなかった。
缶を口へ運ぶ。
冷たいのが、喉を落ちていく。
「岩城さん」
「うん」
「おれ、あのとき、代わりますって言ったの、間違ってましたか」
缶を持つ手が、止まった。
あの声を、おれは知っている。
三階と四階のあいだの、下から。
「……間違ってない」
「ほんとですか」
「ほんとだ」
言ってから、自分の言葉が、耳に残った。
間違っていない、と、おれは今、はっきり言った。
あの手は間違っていない。
なら、あそこで間違っていたのは、どこだ。
「じゃあ、なんで辞めたんすか」
答えが出てこなかった。
日野は、こっちを見ていなかった。
缶のプルタブを、左の指でいじっている。
「おれ、二か月って言われて、二か月で治ったんですよ。ちゃんと。予定どおり」
「そうか」
「岩城さんのは、いつ治るんですか」
「……なんの話だ」
「知らないですけど」
日野は笑った。
悪気のない笑い方だった。
「おれ、指なくなったわけじゃないんで。労災も出たし、所長もめちゃくちゃ気ぃ使ってくるし。正直、そんなに困ってないんですよ」
「よかったな」
「困ったのは、岩城さんが辞めたことです」
風が来た。
生ぬるい風だった。
「おれ、あの日、下から見てて。間に合わなかったなって、ずっと思ってて」
「お前が思うことじゃない」
「岩城さんもですよ」
言い返せなかった。
缶が汗をかいて、手のなかで滑った。
日野は、缶を膝に置いて言った。
「おれ、力ないですけど。端くらいなら、持てますよ」
端、という言葉が、耳に引っかかった。
五階の主人と、八階の廊下と、同じ場所に刺さった。
「岩城さん、戻ってこないんですか」
おれは、答えなかった。
答えなかったのに、日野は怒らなかった。
空になった缶を、左手で握って潰そうとして、うまくいかず、そのまま持って立った。
改札の手前で、振り向いて言った。
「シフト表、まだ岩城さんの欄あるんですよ。班長、消してないんです」
「消し忘れだろ」
「あの人が忘れるわけないじゃないですか」
日野は右手を上げかけて、途中でやめて、左手を振った。
電車が来る音がした。
おれは、缶を持ったまま、しばらくベンチに座っていた。
日野は、自分の空き缶を持って帰った。
潰せないまま、左手で。
おれの分は、まだ半分残っている。
持ってきてもらった缶を、開けてやっただけの夜だった。
それなのに、帰り道の足が、少しだけ速かった。




