第5話 端を持ってて
ビルの仕事は、日が落ちてから始まる。
最初の三日で、電球を六個替えた。
四階の廊下、七階の非常灯、一階の裏口。
脚立を出すたびに、これは仕事なのかと思う。
思うが、頼まれたことではある。
脚立に乗ると、床が鳴った。
おれの体重で鳴る。
電球は、軽い。
片手で足りる。
上って、外して、はめて、下りる。
それで一つだ。
軽いものばかり触っていると、手のひらの感覚が、少しずつ変わってくる。
四日目に、五階から声がかかった。
古書店だ。
ガラス戸に、手書きの札が下がっている。
中は本の匂いがした。
十階の事務所と同じ匂いだが、こっちのほうが濃い。
「あんた、ジオンさんとこの」
主人は、腰の高さの箱の前で、膝に手をついていた。
「はい」
「悪いね。これ、奥へやりたいんだけど」
箱を見た。
ミカン箱より一回り大きい。
中身は本だ。
詰まり方からして、四十キロ。
持ち上げる前に分かる。
癖だ。
おれは膝を折って、底に手を入れた。
「あ、いや」
主人が手を出して、止めた。
「そっちの端、持っててくれる。こっちが下から入れるから」
「……一人でいけますけど」
「うん、そうだろうね」
それだけだった。
否定でもなければ、遠慮でもなかった。
おれは、箱の端を持った。
主人が反対側を抱え直して、ずる、と押す。
腰をかばう押し方だった。
棚まで二メートルを、三回に分けて進んだ。
おれが一人で運べば、二秒だ。
今、二十秒かかっている。
持っているあいだ、主人の息が伝わってきた。
押すときに短く吸って、止めるときに吐く。
おれは、それに合わせて力を抜いたり、入れたりした。
二人で持つと重い、と覚えてきた。
相手に合わせるぶん、自分の腰が浮く。
実際、重かった。
四十キロが、六十キロくらいの手応えになる。
それなのに、腰は浮かなかった。
主人のほうが、おれの息に合わせていた。
「はい、そこで下ろして」
下ろした。
それで、済んだ。
「……箱ごと入れたほうが、早かったですよ」
「早いとね、どれがどこにあるか、分からなくなるんだ」
主人は棚を見ていた。
背表紙が、こちらを向いて並んでいる。
「ありがとうね」
礼を言われた。
おれは、何もしていない。
端を持っていただけだ。
十階へ戻ると、男はいつもの椅子にいた。
目を閉じたまま、うちわを使っている。
エアコンは、ついている。
「おかえりなさいー」
「電球、あと二つ切れてます。明日買ってきます」
「はい、はい」
おれは、立ったまま言った。
「五階の人、腰、悪いんじゃないですか」
「悪いですよー。もう、十年くらい」
「じゃあ、おれが持ったほうが早かったですよね」
「でしょうねー」
「なんで止めたんですかね、あの人」
男は、うちわを止めた。
「岩城さん、あの人に、なんて言われました?」
「……端を持ってて、と」
「じゃ、それが、頼まれたこと、ですねー」
言葉が、うまく入ってこなかった。
持てる。
だから、持つ。
二十九年、その二つのあいだに、何も挟まっていなかった。
「持てるのに」
「はい」
「持たないんですか」
「んー」
男は、うちわを再開した。
「持てる、と、持ったほうがいい、はー。……別のこと、じゃないですかねー」
「同じでしょう」
「そうですかー」
それ以上は言わなかった。
麦茶を注ぐ音がした。
帰りのエレベーターで、所長の声を思い出した。
重い物を一人で持つのは、もうなしだ。
あのとき、おれはそれを、取り上げられたと聞いた。
五階の主人は、取り上げなかった。
端を持ってて、と言った。
同じ話なのか、違う話なのか、分からなかった。
外へ出ると、風が生ぬるかった。
ポケットで、スマホが鳴った。
――あしたは、八階、お願いしますー。
ぼく、行けないので。
行けないので、と書いてある。
あの人が動いているところを、おれはまだ、一度も見ていない。




