第3話 持たない人
辞めてから、曜日が分からなくなった。
テレビの番組で見当をつける。
それも、昼のうちは同じような顔ぶれが出ているので、あまり当てにならない。
服は、大きいものを着るようになった。
もともと大きいのを着ていたが、それより一つ上げた。
肩と腕の形が、布の下で消える。
鏡の前で確かめて、袖を引っ張る。
外へは、朝と夜に出る。
日が高いうちは、出ない。
コンビニまで歩いて、飲み物を買って、帰る。
それだけで一日が終わる日がある。
終わることに、そんなに困っていない自分がいる。
夕方、玄関の鍵が鳴った。
母が、両手に袋を提げて入ってきた。
片方から、米の袋の角が出ている。
五キロだ。
三キロのときもあるが、今日は五キロだった。
「ただいま」
「……おかえり」
おれは、廊下に立っていた。
手は出さなかった。
母は靴を脱いで、袋を持ち上げ直して、台所へ入っていった。
肘のあたりに、袋の紐の跡が赤く残っていた。
冷蔵庫を、百二キロ持ったことがある。
五キロだ。
持てば、二秒で終わる。
持てば、母は「悪いわね」と言う。
そのあと、しばらく口数が減る。
持たなければ、母が持つ。
どちらでもない場所に、おれは立っている。
部屋に戻って、スマホを開いた。
日野の名前は、いちばん上にある。
事故のあと、向こうから一度だけ来ていた。
――岩城さん、大丈夫でしたか
怪我をしたほうが、そう送ってきた。
返していない。
文面は、何度も書いた。
悪かった。
あのとき、言えばよかった。
治ったら、飯でも。
全部、途中で消した。
どれを送っても、日野は「大丈夫っすよ」と返してくる。
それが分かる。
分かるから、送れない。
こっちが楽になるために、あいつにもう一回、大丈夫と言わせることになる。
スマホを伏せた。
その夜、台所で、母が言った。
「無理して働かなくていいって、言ってるでしょう」
求人の紙が、テーブルに置いてあった。
おれが朝に持って帰ってきて、そのままにしていたものだ。
倉庫の仕分け。
日勤。
重量物あり、と書いてある。
「別に、無理してない」
「してるでしょう。この、重量物ありって」
「持てるよ」
「そういう話じゃないの」
母は、洗い物の手を止めていなかった。
ずっと背中を向けたままだ。
「あんたが倒れたら、また——」
そこで、切れた。
言わなかった続きが、部屋の温度みたいに残った。
おれは、それを埋めた。
「また、誰かが運ぶんだろ」
水の音が止まった。
「そうじゃない」
「そうだよ」
声が、思ったより大きく出た。
「だから嫌なんだよ。おれがいると、みんなが無理するんだよ」
母は、振り向かなかった。
蛇口をひねって、また洗い始めた。
皿が一枚、音を立てた。
おれは部屋へ戻った。
言ってしまってから、はっきりした。
あれは母への文句ではない。
二十九年、おれがずっと自分に言っていたことだった。
電話が鳴ったのは、三日あとだ。
班長だった。
「おう、生きてるか」
「はい」
「日野、ギプス外れたぞ。あいつ、右手で箸持てるようになったって自慢してきやがった」
「……そうすか」
用件は、そのあとだった。
「岩城、お前さ。変な仕事があるんだけど」
「変な」
「うちの元請けの、そのまた知り合いっつうか。よう分からん会社なんだけどな。荷物じゃなくて、人手がいるとかで」
「何するんですか」
「知らん。おれも聞いてない」
班長は、笑っていた。
「ただ、暑い日は外出るなって、向こうから言われた」
おれは、スマホを持ち替えた。
まだ何も言っていない。
「場所は」
「神宝町。古いビルだ。十階建ての」
窓の外は、まだ明るかった。
日が落ちるまで、あと二時間ある。
おれは、大きいほうのシャツに手を伸ばした。




