第1話 一人でいけるだろ
「岩城、それ一人でいけるだろ」
班長は言うだけ言って、もう次の荷物のほうを向いている。
返事は待っていない。
目の前にあるのは、両開きの冷蔵庫だ。
天板に貼られた伝票に、百二、と書いてある。
台車が入るのは玄関の外まで。
そこから先は内階段で、三階まで手で上げるしかない。
「いけます」
おれは言う。
実際、いける。
壁に背をつけて、下から抱え直す。
角を右の肩に乗せ、左手を底へ回す。
重さは腰では受けない。
脚で受ける。
踵から順に、床を踏み替えていく。
一段。
二段。
冷蔵庫の重心が、おれの重心の内側にある限り、これは荷物ではない。
おれの一部だ。
そういう持ち方がある。
誰にも教わっていない。
踊り場の下から、声がした。
「岩城さん、それ本当は二人ですよね」
日野だ。
春に入ったばかりで、まだ台車の畳み方で迷う。
「大丈夫」
「決まりだと二人って、朝礼で言ってましたよ」
「うん」
おれは返事をして、また一段上がる。
日野は下で、出した両手をどこへやればいいか分からないまま立っていた。
あの手は、おれには届かない。
届いたところで、二人で持つと、かえって重い。
相手の呼吸に合わせて力を抜く分、腰が浮く。
一人のほうが速いし、一人のほうが安全だ。
少なくとも、おれはそう覚えてきた。
三階で下ろす。
床が鳴った。
奥から施主の奥さんが出てきて、口に手を当てる。
「え、一人で持ってきたんですか」
「はい」
「すごい身体ですねえ」
「どうも」
「こういうお仕事、向いてらっしゃるんでしょうね」
おれは頭を下げる。
この言葉は、年に何十回も聞く。
悪意はない。
ほめている。
おれもそう受け取っている。
外に出ると、光が白かった。
アスファルトの上で、空気が細かく震えている。
トラックの荷台に腰かけて、水を飲んだ。
日野が塩の飴を差し出してきた。
「岩城さん、汗やばくないですか」
「夏だから」
シャツは絞れる。
それは毎年のことだ。
困るのは、汗が出ているうちではない。
ある時点で、急に、止まる。
肌が乾いて、そこから内側に熱がこもりはじめる。
息だけが速くなって、手足の先が遠くなる。
そうなったら、もう決まっている。
今日は、まだ出ている。
ポケットでスマホが鳴った。
母だった。
――今日、暑いけど大丈夫?
既読をつけて、そのまま荷台に置く。
嫌いではない。
むしろ逆だ。
だから、返す言葉が出てこない。
あの人は、二十九年、おれの体温の話をしている。
昼、公園の日陰で弁当を広げた。
日野が隣に座ってきて、缶のふたを開けながら言う。
「おれ、この前の現場で腰いわしかけて」
「持ち方」
「え」
「膝から。背中で持つと、いつか終わる」
「岩城さんは終わらないんすか」
箸が止まった。
考えたことがなかった。
「終わるだろ、いつかは」
「じゃあ、そのときどうすんですか」
日野は本気で聞いていない。
飯を食いながらの、続かない話だ。
それでも、答えが出なかった。
持てなくなったおれに、何が残るのか。
小学校の運動会で、綱引きのとき、おれ一人が反対側に回されたことがある。
四年のときだ。
六年が全員でも、綱は動かなかった。
校庭が笑って、おれも笑った。
笑われているのではなく、ほめられているのだと思っていた。
あの日、おれは午後の徒競走の前に倒れて、母が迎えに来た。
保健室で、母は先生に何度も頭を下げていた。
すみません、この子、暑いところがだめで、と。
おれは寝かされたまま、天井を見ていた。
綱を引いたときのことは、誰も言わなくなっていた。
午後は神宝町の現場だった。
古い町だ。
道が細くて、表にトラックがつけられない。
荷物を運ぶ距離が、そのぶん長くなる。
こういう日に班長が呼ぶのは、おれだ。
夕方、事務所に戻って、明日の割り振りを聞いた。
「岩城、明日な。朝から一件、マンション。エレベーターが工事中で止まってる」
「何階ですか」
「四階」
「はい」
「頼むわ。お前しかおらんから」
事務所のテレビが、天気を映していた。
明日は、今日より三度高いと言っていた。




