第7話 鍵は、回さなかった
議題は、七つあった。
その朝の決裁は三十二件だった。
いつもどおり押して、いつもどおり読まなかった。
月曜の役員会に、私は二十分前に入った。
資料は電車の中で最後まで読んである。
読んであると、時間が余った。
余ったぶんで、七つ目をもう一度読んだ。
七つ目は、生産管理システムの更新だった。
三千二百万。
第二工場の設備更新に合わせて入れる、と書いてある。
書いてあることは、分かった。
分からないことが、一つ残った。
資料を配り終えた石丸を、私は呼んだ。
「石丸さん」
「はい」
「決裁を押さなかった場合は、どうなりますか」
石丸は、質問の意味を測る顔をした。
「差し戻しでしたら、起案部門へ戻ります。修正して、再上程です。二週間から一か月ほど」
「社長が押さなかった例は」
「……私が秘書室に参ってから、ありません」
「何年ですか」
「十二年です」
石丸は、それだけ言って、残りの資料を配りに行った。
六つ目までは、いつもどおりだった。
私は「では、そのように」を六回言った。
七つ目の説明が始まった。
経営企画室長が立って、導入効果を三つ挙げた。
工程の可視化。
データの一元化。
将来の拡張性。
数字が並んでいて、どれも正しそうだった。
「一つ、聞きたい」
部屋の空気が、前の役員会と同じ形に動いた。
質問があって、確認と呼ばれて、承認が続く。
全員が、その順番を待っている顔をしていた。
「これは、誰が使うんですか」
室長は、該当のページを開いた。
「生産管理部と、第二工場の工程課が主な利用部門になります」
「工程課の、何人ですか」
「……手元には、人数までは」
「一日に何回開くことになりますか。開いたら、いまより何が減りますか」
室長が資料をめくった。
めくる音が、二度した。
「導入効果の試算は、稼働率ベースで出しております。作業時間ベースの内訳は、ベンダーの提案書のほうに」
「その提案書は、ここにありますか」
「本日は、要約のみを添付しております」
沼田専務が、手元の資料の端をそろえた。
「社長。ご懸念はごもっともです。運用の詳細は、導入後の詰めということで進めさせていただければ」
私は、朱肉のケースを開けなかった。
「分かりません」
自分の声が、部屋の端まで届いたのが分かった。
「工程課が何人で、そのうち何人がこれを使って、一日が何分短くなるのか、私には分かりません。分からないまま押すことは、できません」
誰も、すぐには喋らなかった。
壁際のキーの音が、止まっていた。
「差し戻します。次回、作業時間の内訳をつけて出してください」
沼田専務が、こちらを見た。
この人が私を正面から見たのは、久しぶりだった。
「承知いたしました」
それだけだった。
声を荒らげる人はいなかった。
異議を唱える人もいなかった。
工場長が小さく頷いて、経理部長が資料の端に何か書いた。
会議は十時十八分に終わった。
廊下で、沼田専務が半歩下がって頭を下げた。
「ありがとうございました」
言葉は、いつもと同じだった。
三週間後、七つ目は再上程された。
作業時間の内訳がついていた。
工程課は十一人で、そのうち八人が使い、一日あたり十四分が減る、と書いてあった。
金額は三千二百万のままだった。
私は読んで、押した。
議事録に、私の名前で、差し戻し、という語が残った。
土曜に、神宝町へ行った。
残りの戸籍が届いて相続人が確定した、と町田さんから連絡があった。
祖父の相続人は父と叔父の二人で、父の分は私が引き継ぐ。
あいだの三週間で、叔父とは二度話した。
電話で一度と、会って一度で、決めたことは書面の二枚に収まった。
「叔父様とお決めになった内容で、こちらを作りました」
書面は二枚あった。
私は上から下まで読んだ。
分からない語が二つあって、両方とも聞いた。
町田さんは両方とも、私が分かるまで言い方を変えて説明した。
それから、印鑑を出した。
朱肉の蓋を開けて、名前の横の丸に印面を当てた。
当ててから、もう一度だけ、二枚目の下のほうを読み直した。
町田さんは、待っていた。
急かす気配のない待ち方だった。
押した。
十七秒では、なかった。
「お預かりします」
彼女は書面を両手で受け取って、日付の欄を指でなぞった。
二度目に見る手つきだった。
ビルを出ると、一階の店の窓際に、あの子がいた。
私に気づいて、立ち上がりかけて、それから座り直した。
私が扉を押して入ると、その子はテーブルの上の携帯を裏返した。
「この前は、失礼なことを言いました」
立ったまま、そう言った。
「はい」
その子は、否定しなかった。
いえ、とも、すみませんでした、とも言わなかった。
ただ、はい、と言って、向かいの椅子を引いた。
私は座った。
「この前の質問ですが」
「はい」
「向いてないと言われたことは、やはり、ありませんでした」
その子は、グラスに指を置いた。
「言われないままでいるのを、やめました。会社で、分かりません、と言いました。一件だけ、止めました」
言ってから、これは自慢だと思った。
十六かそこらの子に向かって話すことではない。
その子は、少し考えてから言った。
「止めたら、どうなったんですか」
「三週間後に、通りました」
「あー」
その子は、机の木目を見た。
それから笑った。
声を出さずに、口の端だけで笑った。
「でも、通るまでのあいだは、羽鳥さんの名前で止まってたんですよね」
私は、返事をしなかった。
返事の代わりに、水を飲んだ。
店を出るとき、扉のところで人とすれ違った。
痩せた男だった。
肩が薄い。
紙袋を提げて、外から入ってきた。
私が扉を押さえると、男はゆっくり頭を下げた。
「あ、どうも。すみませんねぇ」
後ろから、その子が声をかけた。
「お父さん」
私は、扉を押さえたまま立っていた。
男は、私の顔を見た。
見て、何か言おうとして、やめた顔をした。
それから口を開いた。
「うちの子が、ご迷惑をおかけしたようで」
「迷惑をかけたのは、私のほうです」
「……ああ」
男は、少し笑った。
目のあたりだけで笑う人だった。
「じゃあ、そういうことにしときましょうかねぇ」
紙袋を持ち直して、男は奥へ歩いていった。
エレベーターの前を通り過ぎて、階段を上がっていった。
私は、その背中を見ていた。
家に着いたのは、日が落ちてからだった。
車庫の電気をつけた。
白い幌が二十年ぶんの埃をかぶって、車の形にへこんでいる。
端を持った。
この前は、ここで手を離した。
幌を、上げた。
埃が舞って、電球の光の中へ散っていった。
白い車だった。
二十年前に、自分の金で選んだ色だ。
運転席の扉を開けて、座った。
ハンドルに手を置いた。
鍵は、回さなかった。




