第6話 三十分で、一件も
祖父の戸籍は、まだ半分だった。
木曜の決裁は四十一件だった。
その束を押し終えて鞄を持ったところで、留守番電話が入っているのに気づいた。
町田さんだった。
お祖父様の分が半分ほど届きましたので、一度、内容をご確認いただけますか。
急ぎませんので、お手すきのときで結構です。
用件と、急がないことと、それだけが吹き込んであった。
金曜に、月曜の役員会の資料が届いた。
議題が七つある。
封は切らなかった。
土曜の午前に、神宝町へ行った。
四度目だった。
一度目は法要の帰りで、二度目は封筒を届けに、三度目は用がないのに来た。
今日は、呼ばれて来た。
呼ばれてこの町へ来るのは、初めてだった。
古書店街は先週より人が少なくて、平台にビニールを掛けたままの店があった。
空が高い。
レンガのビルの前で一度足が止まって、それから中へ入った。
六階のカウンターに、ファイルが三つ並べてあった。
「お待ちしていました」
どれも厚かった。
「お祖父様の、出生から亡くなるまでの分です。まだ全部ではありません。あと二か所、役所からの返事を待っています」
「これで、半分ですか」
「はい。昔のものは手書きですし、途中で作り直されているので、通数が増えます」
町田さんは、いちばん端のファイルに手を置いた。
「三つ目は、お祖父様がご自分で綴じておられたものです。お宅から出てきたぶんを、そのまま入れてあります」
一枚めくった。
旧字の縦書きで、線が何本も引かれていて、読めない字があった。
読めない字の横に、鉛筆で小さく仮名が振ってある。
「読み方を書き添えました。読めば分かるようにしてあります」
付箋が何枚も飛び出していた。
相続人の欄、と書いてある。
婚姻、と書いてある。
私は椅子に座って、読んだ。
祖父の名前が、一通目の右端にあった。
生年。
婚姻。
子が二人。
父の名前と、叔父の名前。
父が十八でこの町を出たという叔父の話は、そこには一行も出てこなかった。
住んでいた場所は、この紙には載らないのだと町田さんが言った。
載るのは、生まれたことと、婚姻と、亡くなったことだ。
三つ目のファイルに、それはあった。
父の名前の入った、古い住民票の写しだった。
祖父が役所で取って、そのまま綴じてある。
日付の欄が二つ並んでいた。
住所を定めた日と、その届出の日だ。
四か月ずれている。
私は、指をそこに置いたまま少し考えた。
四か月のあいだ、紙の上では、父はまだこの家にいたことになっていた。
出たあとで、誰かがまとめて届けたのか、父自身が四か月置いたのかは、書いていない。
書いていないことは、どこにも書いていない。
読み終えるのに、三十分かかった。
会社なら三十分で百件が終わる。
私は三十分かけて、一件も終わらせなかった。
終わらせないまま、全部読んだ。
読んだところで、名義は一ミリも動いていない。
顔を上げると、町田さんはこちらを見ていなかった。
自分の画面に向かっていた。
見られていないことが、ありがたかった。
「残りが届きましたら、相続人が確定します。そのあとは、叔父様との話し合いです」
帰り際に、私は一度、口を開きかけた。
先日ここへ来ていた子のことだ。
四月一日、とだけ聞いている。
制服で、ラケットバッグを持っていた子だと言えば通じるはずだった。
言わずに、頭を下げて廊下へ出た。
エレベーターの前で、下りのボタンを押した。
数字が十から下りてくる。
八、七、と減っていくのをしばらく見て、それから階段のほうへ歩いた。
理由はない。
待つのを、やめただけだ。
六階から一階まで、五つぶんだった。
降りきったところに、表とは別の扉があった。
開いている。
段ボールが二つ立てかけてあって、その向こうが外だった。
外へ出た。
ビルの裏は、細い路地だった。
人ひとりぶんの幅で、片側に室外機が並んでいる。
自転車が二台、壁に立てかけてあった。
表の通りの音は、ここまで来ない。
地面が、オレンジだった。
小さい粒が、コンクリートの目地に沿って溜まっている。
避けようとして、避けきれなかった。
見上げた。
大きな木が一本、壁に沿って立っている。
二階の窓のあたりまで枝が来ていて、上のほうは日に当たって、下のほうは陰になっていた。
幹は、私の腕では回らない太さだった。
名前は知らない。
匂いがした。
甘い匂いだった。
二週間前に店を出たときのものと同じで、今度は、どこの家のものか分からないということがなかった。
私は、そこに立った。
中学のときだ。
祖父が死んだ年の秋に、父の車でこの町へ来た。
あの家を見に行った帰りだった。
雨戸は、あのときもう閉まっていた。
父は表通りを外れて、細い道に車を停めた。
ちょっと寄る、と言った。
どこへ、とは言わなかった。
行ってくる、でも、待っていろ、でもなく、ちょっと寄る、だった。
私は後ろの席で鞄から参考書を出して、開いて、読まなかった。
父が路地を曲がっていくのが、サイドミラーに映った。
背広の背中だった。
運転手のつかない車で来た父を、私はそのとき初めて見た気がする。
窓を開けた。
この匂いがした。
父は、長く戻ってこなかった。
ラジオをつけて、消した。
同じページを二回見た。
前の道を、自転車が三台通った。
三台目が通ったところで、数えるのをやめた。
どのくらい待ったのかは覚えていない。
時計を見る習慣が、まだなかった。
戻ってきた父は、上着に匂いをつけていた。
窓の外と同じ匂いだった。
木の下を通ってきたのだと、そのときは思わなかった。
ただ、父から知らない匂いがする、と思った。
父は運転席に座って、シートベルトを締めて、それから車を出さなかった。
ハンドルに手を置いたまま、前を見ていた。
「悠一」
と、父が言った。
私は顔を上げた。
父はこちらを見ていなかった。
「いや」
そう言って、父は車を出した。
帰りの車で、私は父の顔をミラー越しに何度か見た。
泣いてはいなかった。
怒ってもいなかった。
会社の人と話しているときの顔でもなかった。
あの顔を、私はそれ以来、見ていない。
路地の風が、粒をいくつか転がした。
このビルのどこかへ、父は入ったのだと思う。
何階かは知らない。
誰に会ったのかも、何を話したのかも知らない。
三十分だったのか一時間だったのかも分からない。
分かるのは、父がここへ来ていた、ということだけだ。
継げと言われた記憶がない、と私は思っていた。
言われなかったのではない。
言おうとして、やめられたのだ。
私は路地に立ったまま、しばらく動かなかった。
表の通りから、誰かの笑い声が一度だけ届いて、消えた。
木の上のほうで、葉が鳴った。
足の下で、粒がつぶれた。
踏んだのは、そのあとだ。
私は、階段を上がった。
六階の扉を開けると、町田さんが顔を上げた。
「お忘れ物ですか」
「いえ」
息が上がっていた。
五つぶんを続けて上がったのは初めてだった。
「裏に、木がありますね」
「金木犀です」
彼女は、少し笑った。
「今年は長いんですよ。もう終わったと思ったら、また匂って」
「そうですか」
私は、息が落ち着くのを待った。
「先日、こちらに来ていた子に、伝えていただけますか」
町田さんは、ペンを置いた。
「ちーちゃんですね」
「……名字しか、聞いていませんでした」
「はい」
彼女はそれ以上言わずに、伝言をどうぞ、という顔で待っていた。
「失礼なことを言いました、と」
「はい」
「それだけです」
町田さんは、メモを取らなかった。
取らずに頷いた。
「ご自分でおっしゃったほうが、あの子は、たぶん」
そこで一度切って、言い直した。
「……いえ。お伝えします」
はい、とだけ言って、私は頭を下げた。
廊下へ出て、今度はエレベーターに乗った。
一階に着いて、ガラス扉を押す前に、案内板を見た。
十階の欄だけが、やはり空いている。
外へ出ると、通りは表の顔をしていた。
平台の前に人が立って、背表紙を眺めている。
二週間前、ここで名前を知らないまま通り過ぎた匂いが、まだ薄く残っていた。
鞄の底に、月曜の役員会の資料が入っていた。
金曜に届いて、封も切っていない。
電車の座席で、私はそれを開いた。




