表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
三代目

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

134/152

第6話 三十分で、一件も


 祖父の戸籍は、まだ半分だった。


 木曜の決裁は四十一件だった。


 その束を押し終えて鞄を持ったところで、留守番電話が入っているのに気づいた。


 町田さんだった。


 お祖父様の分が半分ほど届きましたので、一度、内容をご確認いただけますか。


 急ぎませんので、お手すきのときで結構です。


 用件と、急がないことと、それだけが吹き込んであった。


 金曜に、月曜の役員会の資料が届いた。


 議題が七つある。


 封は切らなかった。


 土曜の午前に、神宝町へ行った。


 四度目だった。


 一度目は法要の帰りで、二度目は封筒を届けに、三度目は用がないのに来た。


 今日は、呼ばれて来た。


 呼ばれてこの町へ来るのは、初めてだった。


 古書店街は先週より人が少なくて、平台にビニールを掛けたままの店があった。


 空が高い。


 レンガのビルの前で一度足が止まって、それから中へ入った。


 六階のカウンターに、ファイルが三つ並べてあった。


「お待ちしていました」


 どれも厚かった。


「お祖父様の、出生から亡くなるまでの分です。まだ全部ではありません。あと二か所、役所からの返事を待っています」


「これで、半分ですか」


「はい。昔のものは手書きですし、途中で作り直されているので、通数が増えます」


 町田さんは、いちばん端のファイルに手を置いた。


「三つ目は、お祖父様がご自分で綴じておられたものです。お宅から出てきたぶんを、そのまま入れてあります」


 一枚めくった。


 旧字の縦書きで、線が何本も引かれていて、読めない字があった。


 読めない字の横に、鉛筆で小さく仮名が振ってある。


「読み方を書き添えました。読めば分かるようにしてあります」


 付箋が何枚も飛び出していた。


 相続人の欄、と書いてある。


 婚姻、と書いてある。


 私は椅子に座って、読んだ。


 祖父の名前が、一通目の右端にあった。


 生年。


 婚姻。


 子が二人。


 父の名前と、叔父の名前。


 父が十八でこの町を出たという叔父の話は、そこには一行も出てこなかった。


 住んでいた場所は、この紙には載らないのだと町田さんが言った。


 載るのは、生まれたことと、婚姻と、亡くなったことだ。


 三つ目のファイルに、それはあった。


 父の名前の入った、古い住民票の写しだった。


 祖父が役所で取って、そのまま綴じてある。


 日付の欄が二つ並んでいた。


 住所を定めた日と、その届出の日だ。


 四か月ずれている。


 私は、指をそこに置いたまま少し考えた。


 四か月のあいだ、紙の上では、父はまだこの家にいたことになっていた。


 出たあとで、誰かがまとめて届けたのか、父自身が四か月置いたのかは、書いていない。


 書いていないことは、どこにも書いていない。


 読み終えるのに、三十分かかった。


 会社なら三十分で百件が終わる。


 私は三十分かけて、一件も終わらせなかった。


 終わらせないまま、全部読んだ。


 読んだところで、名義は一ミリも動いていない。


 顔を上げると、町田さんはこちらを見ていなかった。


 自分の画面に向かっていた。


 見られていないことが、ありがたかった。


「残りが届きましたら、相続人が確定します。そのあとは、叔父様との話し合いです」


 帰り際に、私は一度、口を開きかけた。


 先日ここへ来ていた子のことだ。


 四月一日、とだけ聞いている。


 制服で、ラケットバッグを持っていた子だと言えば通じるはずだった。


 言わずに、頭を下げて廊下へ出た。


 エレベーターの前で、下りのボタンを押した。


 数字が十から下りてくる。


 八、七、と減っていくのをしばらく見て、それから階段のほうへ歩いた。


 理由はない。


 待つのを、やめただけだ。


 六階から一階まで、五つぶんだった。


 降りきったところに、表とは別の扉があった。


 開いている。


 段ボールが二つ立てかけてあって、その向こうが外だった。


 外へ出た。


 ビルの裏は、細い路地だった。


 人ひとりぶんの幅で、片側に室外機が並んでいる。


 自転車が二台、壁に立てかけてあった。


 表の通りの音は、ここまで来ない。


 地面が、オレンジだった。


 小さい粒が、コンクリートの目地に沿って溜まっている。


 避けようとして、避けきれなかった。


 見上げた。


 大きな木が一本、壁に沿って立っている。


 二階の窓のあたりまで枝が来ていて、上のほうは日に当たって、下のほうは陰になっていた。


 幹は、私の腕では回らない太さだった。


 名前は知らない。


 匂いがした。


 甘い匂いだった。


 二週間前に店を出たときのものと同じで、今度は、どこの家のものか分からないということがなかった。


 私は、そこに立った。


 中学のときだ。


 祖父が死んだ年の秋に、父の車でこの町へ来た。


 あの家を見に行った帰りだった。


 雨戸は、あのときもう閉まっていた。


 父は表通りを外れて、細い道に車を停めた。


 ちょっと寄る、と言った。


 どこへ、とは言わなかった。


 行ってくる、でも、待っていろ、でもなく、ちょっと寄る、だった。


 私は後ろの席で鞄から参考書を出して、開いて、読まなかった。


 父が路地を曲がっていくのが、サイドミラーに映った。


 背広の背中だった。


 運転手のつかない車で来た父を、私はそのとき初めて見た気がする。


 窓を開けた。


 この匂いがした。


 父は、長く戻ってこなかった。


 ラジオをつけて、消した。


 同じページを二回見た。


 前の道を、自転車が三台通った。


 三台目が通ったところで、数えるのをやめた。


 どのくらい待ったのかは覚えていない。


 時計を見る習慣が、まだなかった。


 戻ってきた父は、上着に匂いをつけていた。


 窓の外と同じ匂いだった。


 木の下を通ってきたのだと、そのときは思わなかった。


 ただ、父から知らない匂いがする、と思った。


 父は運転席に座って、シートベルトを締めて、それから車を出さなかった。


 ハンドルに手を置いたまま、前を見ていた。


「悠一」


 と、父が言った。


 私は顔を上げた。


 父はこちらを見ていなかった。


「いや」


 そう言って、父は車を出した。


 帰りの車で、私は父の顔をミラー越しに何度か見た。


 泣いてはいなかった。


 怒ってもいなかった。


 会社の人と話しているときの顔でもなかった。


 あの顔を、私はそれ以来、見ていない。


 路地の風が、粒をいくつか転がした。


 このビルのどこかへ、父は入ったのだと思う。


 何階かは知らない。


 誰に会ったのかも、何を話したのかも知らない。


 三十分だったのか一時間だったのかも分からない。


 分かるのは、父がここへ来ていた、ということだけだ。


 継げと言われた記憶がない、と私は思っていた。


 言われなかったのではない。


 言おうとして、やめられたのだ。


 私は路地に立ったまま、しばらく動かなかった。


 表の通りから、誰かの笑い声が一度だけ届いて、消えた。


 木の上のほうで、葉が鳴った。


 足の下で、粒がつぶれた。


 踏んだのは、そのあとだ。


 私は、階段を上がった。


 六階の扉を開けると、町田さんが顔を上げた。


「お忘れ物ですか」


「いえ」


 息が上がっていた。


 五つぶんを続けて上がったのは初めてだった。


「裏に、木がありますね」


「金木犀です」


 彼女は、少し笑った。


「今年は長いんですよ。もう終わったと思ったら、また匂って」


「そうですか」


 私は、息が落ち着くのを待った。


「先日、こちらに来ていた子に、伝えていただけますか」


 町田さんは、ペンを置いた。


「ちーちゃんですね」


「……名字しか、聞いていませんでした」


「はい」


 彼女はそれ以上言わずに、伝言をどうぞ、という顔で待っていた。


「失礼なことを言いました、と」


「はい」


「それだけです」


 町田さんは、メモを取らなかった。


 取らずに頷いた。


「ご自分でおっしゃったほうが、あの子は、たぶん」


 そこで一度切って、言い直した。


「……いえ。お伝えします」


 はい、とだけ言って、私は頭を下げた。


 廊下へ出て、今度はエレベーターに乗った。


 一階に着いて、ガラス扉を押す前に、案内板を見た。


 十階の欄だけが、やはり空いている。


 外へ出ると、通りは表の顔をしていた。


 平台の前に人が立って、背表紙を眺めている。


 二週間前、ここで名前を知らないまま通り過ぎた匂いが、まだ薄く残っていた。


 鞄の底に、月曜の役員会の資料が入っていた。


 金曜に届いて、封も切っていない。


 電車の座席で、私はそれを開いた。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ