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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
三代目

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第5話 千八百人


 候補は、三社だった。


 月曜の役員会で、第二工場の発注先が決まる。


 私は週末に、比較表を三回読んだ。


 技術評価、価格、納期、実績。


 数字はそろっていて、どこにも穴がなかった。


 会議室で、経営企画室長が説明した。


 結論は最後の一行に書いてあった。


 総合評価により、A社を最適とする。


「一つ、聞きたい」


 自分の声で、部屋が少し静かになった。


 質問をすること自体が、この部屋では珍しい。


「B社の技術評価はA社より上になっている。それでも総合でA社になるのは、なぜですか」


 室長は、うろたえなかった。


 手元の補足資料をめくって、係数の説明をした。


 価格点の重みが六割であること。


 B社の納期に条件がつくこと。


 説明は正確で、分かりやすく、三分で終わった。


「ご確認、ありがとうございます」


 と沼田専務が言った。


 確認。


 私のしたことは、確認と呼ばれた。


 質問は答えを変えるためにするものだが、確認は答えを強くするためにするものだ。


 私の一言で、A社は前より強くなった。


「では、そのように」


 言ったのは私だ。


 壁際でキーの音がした。


 社長より質疑の上、全会一致で承認。


 会議のあとで、石丸が寄ってきて、小さく言った。


「社長、先ほどのご質問、経営企画が喜んでおりました。議論が締まったと」


 喜ばれた。


 私は、何かを試したつもりでいた。


 試したものまで、材料にされた。


 土曜日に、また神宝町へ行った。


 用事は、なかった。


 戸籍はまだそろっていない。


 ただ、あの家を、売るにしても残すにしても、大人になってから自分の目で見たことがない、と気づいた。


 決められないのは、見ていないからかもしれなかった。


 古書店街を抜けて、レンガのビルの前を通った。


 通っただけだ。


 寄る理由がない。


 それでも歩調が緩んだのが自分で分かって、緩んだぶんを取り返すように速く歩いた。


「羽鳥さん」


 後ろから呼ばれた。


 振り向くと、あの子が立っていた。


 今日はラケットバッグがない。


 代わりに、喫茶店の紙袋を提げていた。


「下のお店にいたら、見えたので。……こっち、駅と反対ですね」


「家を見に行きます。父が生まれた家が、この町に残っているので」


 聞かれてもいないことを、私は答えていた。


 並んで歩き出したのは、その子のほうだった。


 断る言い方を探しているうちに、古書店が二軒過ぎた。


 家は、思っていたより小さかった。


 二階建てで、雨戸が全部閉まっている。


 門柱の表札は木で、字が薄れて、羽鳥、とだけ読めた。


 郵便受けに、色の抜けたチラシが差さったままになっている。


 抜く人が、いない家だった。


 庭に木が一本あって、名前は知らない木だった。


 父が十八までここにいた。


 その事実と、この家の大きさが、頭の中でうまくつながらなかった。


「ここ、羽鳥さんの、お父さんの家ですか」


「祖父の家です。名義の上では、まだ」


「住むんですか」


「住みません。……たぶん、売ります」


 叔父の言った、お前が思っているより高いぞ、という声を思い出した。


 値段の話は、しなかった。


 この子の前でする話ではない気がした。


 口に出したのは初めてだった。


 言ってみると、思ったより何も感じなかった。


 決めたからではない。


 どちらでもいいからだ。


 どちらでもいいことだけが、私のところへ来る。


 その子は、雨戸の家をしばらく見ていた。


 それから、紙袋の持ち手を指に巻きながら、言った。


「わたし、この前、言ってないことがあって」


「何ですか」


「うちのお父さん、困ってる人を立ち直らせる仕事、してるんです。ちゃんとした人で、頼めば、たぶん、羽鳥さんの話も聞いてくれます」


「私は、困っていませんが」


「うん……そうじゃなくて」


 その子は、少し黙った。


「頼めば早いのは、わかってるんです。でも、わたしがお父さんに頼んだら、それって、わたしには何もできませんって、自分で言うのと同じだから。剣道のときと、同じになるから。だから、頼まないで、わたしが来ました」


 顔を上げた。


「変ですか」


「いえ」


 変ではなかった。


 この子の話として聞けば、筋は通っていた。


 十六かそこらの子が、自分の足で来て、自分の口で話す。


 立派なことだ。


 それが私と何の関係があるのかが、分からないだけだった。


「羽鳥さんも」


 その子が言った。


「会社で、持ち帰りますって、言ってみたらだめなんですか。一枚だけ。この前の、委任状みたいに」


 風が、雨戸の隙間で短く鳴った。


「町田さんから聞きました。電話のとき、もう決まっているんですかって、聞いてたって。聞けるんだったら……」


 答える前に、体の中で何かが順番を飛ばした。


「子どもに何が分かる」


 声は、大きくなかった。


 大きくないぶん、削れていた。


「私が一枚止めれば、その後ろで千八百人の仕事が止まる。委任状とは違う。君の剣道とも違う。二年やって、やめて、次に行けるものは、会社にはない。分からないでしょう。分からなくていい。……もう、来ないでください」


 言い終わってから、自分の息が浅くなっているのに気づいた。


 会議室では、こんな声は出ない。


 出す必要がないからだ。


 必要のない声を、私は十六かそこらの子に向けて出した。


 今日、初めて自分の中から出てきた声が、これだった。


 その子は、途中から、紙袋の持ち手を握ったまま動かなかった。


「すみませんでした」


 頭を下げた。


 下げたまま、二秒、動かなかった。


 それから顔を上げて、何も言わずに、来た道を戻っていった。


 来るとき隣にあった足音が、帰りにはなかった。


 振り向かなかったが、遠ざかっていくのは分かった。


 走ってきた子の足音とは、別の速さだった。


 私は、雨戸の家と残された。


 鍵は持っていない。


 中には入れない。


 父がこの家のどの部屋で寝ていたのか、私は知らない。


 連れて来られた二度か三度の記憶を探したが、出てくるのは、帰りの車の匂いだけだった。


 この家は、私に何も言わなかった。


 誰も、私に何も言わない。


 さっきまで、言う子がいた。


 帰したのは私だ。


 千八百人、と自分が言った。


 守るものの数のつもりで、言った。


 自分がいないほうが、会社はうまく回る。


 電車の窓に、夕方の古書店街が流れて、消えた。


 鞄の中には、六階の控えがまだ入っている。


 戸籍がそろえば、連絡が来る。


 あの町へ行く用は、まだ終わっていない。


 行けば、あの子のいる町だ。


 家に着くと、車庫の白い幌が目に入った。


 二十年、掛けたままの幌だ。


 近寄って、端を持った。


 埃で、指が滑った。


 幌は、上げなかった。

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