第4話 向いてない
月曜日は、六十六件あった。
休み明けの束は二山に分かれていて、右の山が先週の残り、左が今朝までに回ってきたぶんだった。
夕方までに、全部押した。
十七秒ずつ。
読まないまま、私の名字が六十六枚、増えた。
あの委任状に判を押したのは、その夜だ。
持ち帰って二週間と一日、封筒は書斎の机の端にあった。
目には毎晩入っていた。
その夜は、鞄の中身を出したついでに封筒を開いて、名前の横の丸に印面を当てて、押した。
押してから、気づいた。
表題を見て、欄を見て、押す。
会社の紙と同じ手つきだった。
二週間止まっていた手は、六十六件の続きでなら止まらなかった。
紙を封筒へ戻して、私は少しのあいだ、朱の丸を見ていた。
断ったつもりでいたものが、机の上で終わっていた。
委任状の文面は、二週間のあいだに三回読んだ。
何を頼み、どこまでを任せるのか、全部書いてあった。
会社で毎朝めくる紙より、ずっと短くて、ずっとよく分かった。
分かったうえで、私は止まっていた。
分からないから止まっていたのではなかった。
土曜日に、神宝町へ行った。
郵送でも結構です、と言われている。
切手一枚で済む用を、私は電車に乗って届けに行った。
理由は説明がつかない。
会社の外で、私の判断を待っている紙は、あれ一枚しかなかった。
それを手放しに行くのだから、筋は通っていない。
古書店街は、土曜のほうが人が多かった。
どの店も日除けを半分だけ下ろしていて、背表紙が日に当たらないようになっている。
平台の前で足を止める人の背中を避けながら歩くと、レンガのビルはすぐだった。
六階の窓口で、町田さんは封筒を両手で受け取った。
「お預かりします」
中を確かめて、日付の欄を指でなぞる。
「これで戸籍の取り寄せから始めます。お祖父様の代からですので、お時間をいただきます。そろいましたら、ご連絡しますね」
「お願いします」
それで用は終わりだった。
三十秒で終わる用だった。
町田さんは一度奥の机へ下がって、何かを短く打ってから戻ってきて、控えの紙をくれた。
「お預かりの控えです。……今日は、いいお天気でよかったですね」
書類の話しかしなかった人が、天気の話をした。
私はそれを、帰れという意味には取らなかった。
控えには、預かった日付と、この先の工程が箇条書きで書いてあった。
読めば分かるように書いてある。
読めば分かる紙を、私は久しぶりに手に持った。
鞄に入れて、頭を下げて、廊下に出た。
エレベーターが一階に着いて、扉が開いたところに、その子は立っていた。
制服だった。
肩に大きなラケットバッグを掛けて、息が上がっている。
走ってきたのが分かる呼吸だった。
扉が開いても乗らずに、まっすぐこちらを見ている。
「あの」
私は立ち止まった。
「六階の、お客さんですよね」
「……そうですが」
「十分だけ、いいですか」
知らない子だった。
高校生だろう。
誰かと間違えているのではないかと思ったが、その目は誰かを探している目ではなく、私に当たって止まっている目だった。
そういう見られ方を、私は長くされていない。
一階の喫茶店に入った。
豆を挽く音のする、古い店だった。
店の人はその子の顔を見ると、何も聞かずに水を二つ置いて、奥へ戻った。
その子は、ラケットバッグを椅子に立てかけて、座って、それから頭を下げた。
「すみません。急に」
「構いませんが、何のご用ですか」
「町田さんから、聞きました。判子を押さないで帰った人がいるって。名前は、聞いてないです」
依頼の中身を外で話したのか、と一瞬思ったが、名前を伏せてあるなら、それは誰の話でもない。
考えるより先に、口が動いていた。
「押しましたよ」
自分でも思いがけないほど、言い訳の速さだった。
「さっき、出してきました。その話は、もう終わっています」
「知ってます。来たって、さっき教えてもらったので」
その子は水を一口飲んだ。
「二週間、押さなかったんですよね」
二週間と一日だ、と頭の中で数えが走った。
訂正はしなかった。
押した、ではなく、押さなかった、の側から言われたのは初めてだった。
会社では、済んだ紙の数だけが数えられる。
止まっていた日数を数えた人間は、この子が最初だった。
「……君は」
「四月一日です」
下の名前は言わなかった。
私も聞かなかった。
代わりに、名刺を出しかけて、やめて、口で言った。
「羽鳥です」
「羽鳥さん」
その子は名前を一回、確かめるように言ってから、テーブルの一点を見た。
「わたしの話を、先にしていいですか」
「どうぞ」
「お母さんが、剣道をやってた人なんです。強かったって、それだけ知ってて。わたし、小学生のとき、かっこよくて、始めたんです」
水のグラスに、指の跡がついていた。
「二年やりました。二年やって、才能がないって、わかりました。がんばるとか、そういうのの前の話で。同じ日に始めた子に、ぜんぶ抜かれて。先生の言ってることが、体でできないんです。二年、できないままでした」
その子は、グラスを少し回した。
「で、お父さんに相談したら、言われました。向いてないかもね、って」
そこで少し笑った。
泣いた話のはずなのに、笑った。
「そのとき、泣きました。けっこう泣きました。でも、あれがなかったら、わたし、まだ道場で、数えられてないほうの子をやってたと思います。いまはテニスをやってます。そっちは、向いてるみたいです」
ラケットバッグの持ち手に、大会のゼッケンの名残りらしい紐が結んだままになっていた。
「それで、聞きたかったんです」
その子は顔を上げた。
「羽鳥さんは、誰かに向いてないって言われたこと、ありますか」
すぐに答えられる質問のはずだった。
私は、探した。
役員会。
廊下。
父の書斎。
祖父の通夜。
入社した年の工場実習。
どこかで誰かに言われていないか、順に思い出して、探した。
なかった。
「ない」
と、私は言った。
叱られた記憶を、私は持っていない。
社長になってからではない。
入社した年、工場実習で、私の付けた部品が検査で弾かれたことがある。
班長は私にではなく、隣の指導員に小声で何かを言った。
翌日から、私の持ち場は、検査のいらない工程になっていた。
それきりだ。
私は羽鳥の名字で呼ばれ、丁寧に扱われ、間違える前に誰かが直してくれた。
向いていないと言うためには、まず私を見る必要がある。
誰も、そこまで私を見なかった。
「ないんですね」
その子は、責める顔をしなかった。
驚く顔もしなかった。
そうですか、と小さく言って、水の残りを飲んだ。
その顔が何を分かったのかは、読めなかった。
読めないことが、なぜか、嫌ではなかった。
十分は、とうに過ぎていた。
その子は壁の時計を見て、立ち上がって、ラケットバッグを担いだ。
「ありがとうございました。あの、戸籍がそろったら、また来ますよね」
「来ますが」
「そうですか」
それだけ言って、頭を下げて、店を出ていった。
ガラス越しに、古書店の平台のあいだを走っていく制服が見えて、すぐに見えなくなった。
テーブルに、コーヒーは来ていなかった。
頼んでいなかったことに、そのとき気づいた。
店の人は、水の代金を取らなかった。
店を出ると、通りのどこかが甘く匂った。
花の名前は知らない。
古書店の紙のにおいに混ざって、二軒も歩くと分からなくなった。
駅へ歩きながら、携帯を見た。
石丸のメールが一通。
月曜の役員会に、第二工場の発注先の選定がかかる。
候補三社の比較表が添付してあった。
ホームのベンチで、私はそれを最後まで読んだ。
三ページあった。
数字の根拠に、去年の稼働率が引いてあった。
あの朝、机の上を通り過ぎていった数字だ。
読み終えるのに、十七秒では足りなかった。
月曜、四十二億の相手が決まる。
異議は、出ない。




