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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
三代目

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第3話 言わなかった


 十階に、相談屋さんがいます。


 その一言を、私は言わなかった。


 二週間前の日曜、うちの窓口でのことだ。


 町田です、と名乗って、喪服のままの人から相続の話を聞いて、委任状を出した。


 判をもらえば、その日のうちに動かせた。


 私の仕事は、書類を作って、そろえて、渡すところまでだ。


 あの人は、印鑑を出して、朱肉を開けて、それから押さなかった。


 持ち帰ります、と言った。


 封筒は、二週間たっても戻ってこない。


 郵送でも、また寄っていただいてもいい、と言った。


 そういう言い方をした相手は、たいてい郵送で返してくる。


 書類の仕事を二年やって、そこは外さなくなった。


 あの人は、どちらでもなかった。


 封筒を渡しながら、私の目は勝手に上へ動いた。


 それから相手のネクタイと、椅子に置かれた鞄へ戻った。


 二十万も三十万もしそうな鞄だった。


 この人は、誰かに助けてもらう順番の、いちばん後ろにいる人だ。


 そういう人に十階を勧めるのは、たぶん違う。


 私はそう思って、口を閉じた。


 前に一度、まったく知らない人に同じことを言ったことがある。


 あのときは、言わないと死んでしまうと思ったから言えた。


 思ったのに、二週間、忘れなかった。


 金曜の夕方に、ちーちゃんが来た。


 学校の帰りに、六階へ寄ることがある。


 エレベーターを待つのが面倒だと言って、たいてい階段で上がってくる。


 制服のリボンが曲がっていて、鞄に部活のタオルが引っかかっていた。


「町田さん、これ、下でもらった」


 一階の喫茶店の袋だった。


 中に、焼き菓子が二つ入っている。


「ありがとう。半分こしましょう」


「もう半分は、リサに」


 そう言って、ちーちゃんはカウンターの内側の丸椅子に座った。


 この子はここが好きで、私が書類をそろえているあいだ、何も喋らずに座っていることがある。


 十六歳という年齢の子と、こんなに静かに同じ部屋にいられるのが、私にはまだ少し不思議だ。


 私は、そのとき何を考えていたのか、自分でもよく分からない。


「二週間前にね、うちに来たお客さんが、判子を押さないで帰ったの」


 ちーちゃんが顔を上げた。


「押せなかったの?」


「押せなかった、が近いと思う。持ち帰ります、って言って、持って帰ったきり」


「その人、困ってるの」


「困ってるとは、一言も言わなかった」


 言ってから、私はお茶を淹れる手を止めた。


 困っていると言わなかったから覚えている、という言い方を、私は自分でしたことがある。


 十三年、一度も言わなかった。


「職業の欄に、会社員って書いた人なの。書いてるあいだに電話が鳴って、出てた。会社の人みたいだった」


「日曜なのに?」


「日曜なのに。もう決まっているんですか、って一度だけ聞いて、そのままで、って答えて切ったの」


 湯呑みを出しながら、自分の声が説明の形になっているのに気づいた。


 あんな聞き方ができる人が、自分の家の紙に判を押せなかった。


 そこが、私の中で二週間引っかかっていた。


「私にできるのは、書類までなの」


 声が思ったより低く出た。


「戸籍を集めて、分け方を決めて、書面にする。名義を書き換えるのは登記だから、三階か司法書士の先生に回す。それは回せるの。ちゃんと回せる」


 ちーちゃんは、焼き菓子の袋の端を折りながら聞いていた。


「でも、あの人が困っているのは、そこじゃないと思う。そこじゃないところは、私、渡す先を持ってない」


 言い終わってから、まずいことを言ったと思った。


 この子の前で言うことではなかった。


「その人、まだ来ますか」


 ちーちゃんが言った。


「分からない。来るとしたら、封筒を返しに来るとき」


「来ると思います」


「どうして」


「持って帰ったから」


 私は、少しのあいだ、この子の顔を見ていた。


 要らないなら、その場に置いていけばよかった。


 あの人は封筒を鞄に入れて、まっすぐ持って帰った。


「町田さん」


「うん」


「わたし、上に行ってきます」


 ちーちゃんは丸椅子から降りて、鞄を椅子に置いたまま出ていった。


 六階から十階までは、階段で四つぶんだ。


 この子はいつも階段を使う。


 私はカウンターの内側から、開いた扉の向こうの、踊り場のあたりを見ていた。


 上がっていく音が、三つぶんまで聞こえて、そのあとは聞こえなくなった。


 時計を見た。


 四時二十分だった。


 次に足音が聞こえたのは、四時二十六分だ。


 降りてくる音のほうが、上がっていく音より、ずっとゆっくりだった。


 ちーちゃんは扉のところで一度止まって、それから入ってきて、丸椅子の上の鞄を持ち上げて、また置いた。


「ノックしなかったの?」


「しなかった」


「どうして」


 ちーちゃんは、答えなかった。


 私は、そういう黙り方を知っている。


 理由がないから黙るのではなくて、理由を言うと、それを言った自分のほうが先に崩れるから黙る。


 そういうときに畳みかけられるのが、私はいちばんつらかった。


 だから私も聞かなかった。


「あかりは、ついてた」


 しばらくして、ちーちゃんが言った。


「ドアの下のところ。ついてたし、たぶん、起きてた」


「そう」


「お父さんに言ったら、たぶん、聞いてくれます」


 ちーちゃんは、鞄の持ち手を親指でこすっていた。


「聞いてくれて、そのあと、たぶん、わたしがやることになる。それなら、はじめから、上に行かなくてもよかったんだと思う」


 それは正しくない、と私は思った。


 この子の父親は、この子に何かを押しつける人ではない。


 ただ、押しつけないという形で、いつも本人に返す人ではある。


 でも、そう言い返すことが、この子を助けることになるとは思えなかった。


「町田さん」


「うん」


「その人が封筒を返しに来たら、わたしに教えてもらえますか」


 私は、すぐには返事をしなかった。


 十六歳だった。


 うちのリサと、そんなに変わらない。


 私が渡せなかったものを、この子に渡すのは、大人のすることではない。


 でも、私はさっき、渡す先を持っていないと言った。


 言ってしまった。


 言ったのは私で、聞いたのはこの子だ。


「教えます」


 そう言った。


 ちーちゃんは、少しだけ笑って、焼き菓子の袋をカウンターに置いて帰っていった。


 半分こしましょう、と言ったのに、二つとも置いていった。


 その夜、私は事務所の鍵を閉める前に、天井を見上げた。


 十階のあかりは、私の部屋からは見えない。


 見えないところに、あの人はいる。


 二年前、私は三階の扉の前で、はじめまして、と自分の名前を言った。


 声が震えていた。


 あそこまで一人で行ったわけではない。


 渡された封筒があって、娘が横にいた。


 押してもらった人間は、あとから誰かの背中を押したくなる。


 それでも私は、あの日、言わなかった。


 封筒は、まだ戻ってこない。

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