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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
三代目

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第2話 押さなかった

時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


 名義は、祖父のままだった。


 父の法要は、父が生まれた町の寺で行われた。


 参列は六人。


 父の弟にあたる叔父と、その妻と、息子夫婦と、住職と、私。


 焼香の順を待つあいだ、上着の内側で携帯が二度震えた。


 見なかった。


 会食は、寺から歩いて十分ほどの店だった。


 神宝町は古書店の多い町で、その日曜も、閉めている店と開けている店が半分ずつくらいだった。


 ビールを一杯だけ飲んだ叔父が、箸を置いてから言った。


「あの家、どうする」


 父の生家のことだった。


 町のはずれに残っている。


 父が十八で出てから、誰も住んでいない。


 私も子どものころに二度か三度、連れて行かれた覚えがあるだけだ。


「売るのか、貸すのか、置いておくのか。売るなら、お前が思っているより高いぞ。この町の土地だからな」


 叔父は湯呑みを回した。


「だが、名義がな。まだ親父の名前のままだ。お前の父さんも、結局そこは触らなかった」


 祖父が死んだのは、私が中学のときだ。


 それから二十年以上、紙の上では、あの家はまだ祖父のものだということになる。


 父は会社を大きくして、生まれた家の名前は動かさないまま死んだ。


「駅の向こうに、行政書士の看板が出てた」


 叔父はそう言って、爪楊枝の袋を折った。


「今日のうちに、聞くだけ聞いてくればいい。おれはもう歳だ」


 断る理由がなかった。


 断ると、次に誰がやるのかという話になる。


 店を出てから、携帯を見た。


 石丸のメールが二通あった。


 役員会の議事録の確認と、第二工場の設備更新の続報。


 一括更新の発注先の選定を、来週の役員会にかけたい、とある。


 稟議はもう回り始めていた。


 私はまだ、候補が何社あるのかも聞いていない。


 通りは古書店が続いていた。


 歩道に平台を出したままの店があって、色の褪せた背表紙が日に焼けている。


 その先に、レンガ造りのビルが立っていた。


 十階建て。


 一階が喫茶店になっていて、日曜でも開いている。


 ガラス扉の横に案内板があった。


 一階から九階まで、名前が埋まっている。


 三階、青木法務会計事務所。


 六階には名前が二つ並んでいた。


 片方は事務所の名で、もう片方は読み方の分からない屋号だった。


 私は六階を押した。


 六階の扉は開いていて、入ってすぐが窓口になっていた。


 カウンターの内側に女性が一人。


 四十歳の手前くらいだろうか。


 灰色のカーディガンを着て、パソコンの画面と手元の書類を交互に見ている。


 壁際のキャビネットに、背表紙のそろったファイルが並んでいた。


「いらっしゃいませ」


 女性が立ち上がった。


「町田と申します。ご相談ですか」


 私は用件を言った。


 父が亡くなったこと。


 町のはずれに家が一軒あること。


 名義が祖父のままだということ。


 町田さんは、私が話し終えるまでメモを取っていた。


 それから確認を三つした。


 祖父が亡くなった年。


 父が亡くなった年。


 相続人が何人いるか。


「二代ぶん、飛んでいますね」


 そう言って、彼女は紙を一枚出した。


「お祖父様の代の相続が済んでいませんから、まずそちらからです。戸籍を、お祖父様の出生から亡くなるまで全部集めます。それで相続人が確定します。ここが一番時間がかかります」


 ペン先が紙の上を下りていった。


「相続人の方全員で分け方を決めて、書面にします。ここまでが私の仕事です。最後の名義の書き換えは登記になりますので、私はできません。三階の事務所か、司法書士の先生をご紹介します」


「あなたの資格では、できない」


「はい。今その勉強をしているところなんですが、まだ受かっていないので」


 彼女はそう言って、少しだけ笑った。


 できないことを言うときの顔が、うちの誰とも違っていた。


「確認ですが、お祖父様のお子様は、お父様と叔父様のお二人ですか」


「そうです」


「では、叔父様も相続人になります。この家については、羽鳥様おひとりでは決められません」


 叔父は、そうは言わなかった。


 どうする、と私に聞いた。


 おれはもう歳だ、とも言った。


 自分もその紙に名前を書く一人だということを、あの人は知らないのかもしれないし、知っていて私に投げたのかもしれない。


 どちらであっても、話が私のところへ来ることは変わらなかった。


 申込書を書いた。


 住所、氏名、連絡先。


 職業の欄で、ペンが止まった。


 会社員、と書いた。


 書いてから、その三文字を一秒ほど見ていた。


 登記の上では代表取締役で、私を選んだのは株主だ。


 会社員という言葉は当たっていない。


 当たっていないと分かって書いたのは、この欄に入る言葉が、ほかに浮かばなかったからだ。


 紙を向け直したとき、町田さんの目が職業の欄で一度止まった。


 彼女は何も言わなかった。


 鞄の中で携帯が震えた。


 石丸だった。


 日曜だが、出た。


「先ほどのメールの件です。発注先ですが、経営企画は一社に絞る方向で資料を作っております」


「もう決まっているんですか」


「いえ、社長のご判断です。ただ、比較表のほうは出来上がっておりまして」


 窓口の女性が、手元の紙をそろえていた。


 聞こえていないふりが上手な人の、そろえ方だった。


「そのままで」と私は言った。


 電話を切って、ペンを持ち直した。


「失礼しました」


「お忙しいところ、すみません」


 彼女は自分が謝るようなことを言っていなかった。


 それから、書類の余白に何か短く書き足して、こちらへ向け直した。


「確認ですが、お家は羽鳥様がお継ぎになる形で進めてよろしいですか」


 継ぐ。


「違います」


 自分の口から出た声が、思ったより速かった。


 彼女はペンを止めた。


 私も止まった。


 何が違うのかを言おうとして、言葉が出てこなかった。


 私はあの家を売りたいわけでも、残したいわけでもない。


 ただ、継ぐという言葉を自分に当てられたときに、体のどこかが先に返事をした。


「……すみません。まだ、決めていません」


「はい」


 彼女はそれ以上聞かなかった。


「では、こちらの委任状にご記名と、お認め印をいただければ、戸籍の取り寄せから始められます」


 私は鞄から印鑑を出した。


 朱肉の小さいケースも一緒に入っている。


 社長になった年から、ずっとそこに入れてある。


 紙の名前の横に、丸が一つ空いていた。


 朱肉の蓋を開けて、印面を当てた。


 それから、紙の上で手が止まった。


 三十四件のうちの一件だ。


 表題を読んで、金額を見て、押す。


 毎朝そうしている。


 月曜には休み明けの分がまとめて積まれて、六十件を超えるはずだった。


 それを考えていたら、手が下りなくなった。


 押せば、始まる。


 始まったものは、私の名前で進む。


 私はこの紙の先で何が起きるのかを、まだ読んでいない。


「持ち帰ります」


 言ってから、失礼な言い方だったと思った。


「はい。どうぞ」


 彼女は困った顔をしなかった。


 委任状を封筒に入れ、戸籍の説明を書いた紙を添えて、こちらへ滑らせる。


「郵送でも、また寄っていただいても結構です。……本当は、もっと早くに動かしておくものなんですけどね」


 封筒を受け取るとき、彼女がこちらの手元を見ているのが分かった。


 印鑑を持ったままの右手だ。


 彼女が一度、口を開きかけた。


 目が上のほうへ動いて、それから私のネクタイと、置いてある鞄のあたりへ戻った。


 言おうとしたことをやめたのが分かった。


「お気をつけて」


 言われなかったことのほうが、後まで残った。


 エレベーターで一階まで降りた。


 喫茶店から、豆を挽く音がしていた。


 ガラス扉を押す前に、もう一度、案内板を見た。


 一階から九階まで、名前が入っている。


 いちばん下の行が十階で、そこの欄だけ、何も書かれていなかった。


 外へ出ると、風が少し冷たくなっていた。


 鞄の中で、押さなかった紙が一枚、まっすぐなまま入っている。


 駅までの道で、私は自分が何を断ったのかを考えていた。


 答えは出なかった。


 ただ、今日は一つだけ、押さなかった。


 月曜には、六十件ある。

最後までお読みいただき、本当にありがとうございました。

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