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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
三代目

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129/152

第1話 何ひとつ間違えなかった

時間ができた時にも随時更新します!

ぜひお楽しみに!


 一件あたり、十七秒。


 私の一日は、印を押すことから始まる。


 朝八時四十分。


 社長室の机には、決裁の束が二つ積んである。


 左が今日回ってきたぶん、右が昨日の残り。


 数えると、合わせて三十四件だった。


 多い日は五十を超える。


 九時の役員会までに、これを片づける。


 十七秒というのは、以前、腕時計を見ながら測った数字だ。


 表紙をめくって、稟議の表題を読み、金額の欄に目を落とし、朱肉に押しつけて、紙へ置く。


 十七秒では本文は読めない。


 添付の見積書も、三社比較の表も、その根拠になっている去年の稼働率も読めない。


 読めないまま、私は押す。


 押した書類が、間違っていたことは一度もない。


 決裁が下りたあとで問題になった案件も、私の記憶にはない。


 稟議は、私の机へ届くまでに、課長と部長と担当役員の印を通っている。


 四つ目の丸に意味があるとすれば、それは形が四つそろうことだ。


 表題だけは目に入る。


 事務用消耗品の年間契約更新。


 海外出張規程の一部改定。


 測定室の空調機更新工事。


 九州の代理店との取引条件変更。


 表題は読める。


 表題しか読めない。


 取引条件を、どこからどこへ、いくら動かすのかは知らないまま、私の名字が紙に残る。


 三十四件を押し終えた。


 手のひらの付け根が、朱肉のにおいをうっすらと吸っている。


 扉が鳴って、秘書室の石丸が入ってきた。


「社長、来月号のゲラです。お目通しを」


 社内報だった。


 表紙は、第一工場の若い技能員が三人並んで笑っている写真。


 二枚めくったところに、私の顔写真がある。


 その横に、四百字ほどの文章。


 見出しは「社長メッセージ」。


 読む。


 よく書けている。


 文の長さがそろっていて、どこにも角がない。


 私が書いたものではない。


 赤を入れる場所を探した。


 事実の誤りはない。


 数字も正しい。


 言い回しに引っかかるところもない。


 強いて言えば「約束」という言葉を、私はふだん使わない。


 使わないというだけで、間違いではない。


 ペンを置いた。


「結構です」


「ありがとうございます」


 石丸はゲラを抱えて出ていった。


 扉が閉まりきる前に、私の名前が刷られた紙の束は、もう廊下にあった。


 役員会の部屋は十四階にある。


 南に窓が並んでいて、晴れた日は資料の白がまぶしい。


 長机のいちばん奥に私の椅子があり、右手に沼田専務が座る。


 壁際で、総務の若い社員が議事録を取る。


 議題は三つ。


 ひとつ目の与信枠の見直しは四分で、ふたつ目の子会社の役員人事は六分で終わった。


 どちらも、最後に私が「では、そのように」と言って閉じた。


 私の言葉は、たいていその一言で足りる。


 三つ目が、第二工場の設備更新だった。


 総額四十二億。


 老朽化した加工ラインを入れ替える計画で、稟議は先月から私の机を二度往復している。


 数少ない、私が本文まで読んだ稟議だった。


 私は、二期に分ける案を出した。


「前半だけ先に着工して、後半の発注は来期の第二四半期に判断したい。今期の受注は、上期と下期で見え方が違いすぎます。一括で四十二億を確定させると、下期に谷が来たときに動かせる金がなくなる」


 自分の声が、思ったより低く出た。


 沼田専務は、手元の資料へ視線を落としたまま頷いた。


「なるほど。慎重なご判断かと存じます」


 経営企画室長が続けた。


「工期を割ると据付の応援体制が二度必要になりますが、対応は可能です」


 工場長も、経理部長も、常務二人も、順に短く肯定した。


 反対はひとつも出なかった。


 異論が出ないことに、私はもう慣れている。


 この会議で私の言葉が否定されたことは、社長になってから一度もない。


「では、二期分割の方向で」


 議事が一巡したところで、沼田専務が休憩を提案した。


 十五分。


 私は席を立って、廊下に出た。


 十四階の廊下には、祖父の代の写真が額に入って並んでいる。


 土間に旋盤が四台だけ置かれた工場と、作業服の男が十数人。


 そのうちの一人が祖父で、腕を組んで、笑っていない。


 隣は父の代の写真で、背広の男が大勢写っている。


 上場したときのものだ。


 父も笑っていない。


 この写真の前を通るとき、いつも同じものを思い出す。


 実家の車庫に、白い幌を掛けたままの車が一台ある。


 学生のときに、自分で稼いだ金で買った中古車だ。


 買ったころ、私はこの会社の社長になる日のことを考えたことがなかった。


 継げと言われた記憶もない。


 もう二十年近く動かしていない。


 処分の見積もりを取ったこともあるが、電話を切ったあと、そのままにした。


 自動販売機でコーヒーを買い、紙コップを持ったまま窓の外を見た。


 国道の向こうに第一工場の屋根が見える。


 今日も動いている。


 私がここに十五分立っていても、動いている。


 九時五十三分に会議室へ戻った。


 私の席の前に、資料が置き直されていた。


 休憩前まで開いていたはずの冊子が、ない。


 私は自分の手元を二度見て、隣の席まで目を走らせた。


 回収されている。


 この部屋の資料は会議のあとで総務が全部集めて裁断する決まりだから、途中で下げること自体はおかしくない。


 おかしくはないが、私はまだ、あれを閉じてもいなかった。


 表紙が違う。


 さっきまでの「第二工場設備更新計画」ではなく、「第二工場設備更新計画(修正)」になっている。


 日付は今日。


 作成、経営企画室。


 開いた。


 工程表が一本になっていた。


 二期に分ける線が消えて、来年三月着工、再来年二月完工の一括更新に戻っている。


 総額四十二億、変更なし。


 冒頭の一行に、こうあった。


 ――社長のご意向を踏まえ、工期分割による据付体制の二重化および工事費の増加を回避し、一括更新とする。


 私は、そんなことを言っていない。


 顔を上げた。


 全員がもう着席していた。


 沼田専務は資料の端をそろえ、常務は老眼鏡を掛け直し、工場長は工程表の欄を指でなぞっている。


 壁際の若い社員が、キーボードに指を置いている。


 誰も、私を見ていなかった。


「では、再開いたします」


 沼田専務が言った。


「休憩のあいだに経営企画とも詰めまして。社長のおっしゃった下期の懸念ですが、分割いたしますと据付の応援費が上乗せになります。試算で一億二千万ほど。そこを踏まえますと、一括のほうが社長のご趣旨に沿うかと存じます」


 私の趣旨。


 口を開いた。


 息は出たが、言葉にならなかった。


 私が言ったのは金の総額の話ではない。


 判断を先へ延ばせる余地の話だ。


 それを説明するには去年の受注推移をもう一度出してもらう必要があり、その数字は私の手元にない。


 今朝押した三十四件の、読まなかった添付のどこかにあるはずだった。


 二秒ほど、間があった。


 誰も、私が話し出すのを待ってはいなかった。


 ただ次の言葉を待っていただけだ。


 膝の上で、右手が親指の腹をこすっていた。


 朝の朱肉が、まだ乾ききらずに残っている。


「ご異議は」


 なかった。


「では、社長ご提案のとおり、一括更新にて承認といたします」


 壁際で、キーの音が短く鳴った。


 画面が見えたわけではない。


 それでも、そこに何と打たれたかは分かる。


 社長より一括更新の提案があり、全会一致で承認。


 来月、その議事録に、私は印を押す。


 読まないまま押す三十数件のうちの一件として。


 会議は十時十二分に終わった。


 全員が立ち上がり、私が先に出るのを待った。


 廊下へ出るとき、沼田専務が半歩下がって頭を下げた。


「ありがとうございました」


 丁寧だった。


 この人が私に声を荒らげたことは、一度もない。


 誰も私に声を荒らげたことがない。


 私は今日も、何ひとつ間違えなかった。


 社長室に戻ると、机の上に新しい束が積まれていた。


 午前中に上がってきたぶんだ。


 一枚めくって、表題を読み、金額の欄を見て、押す。


 次。


 押す。


 次。


 途中で、机の端に開いたままの手帳が目に入った。


 来月の欄に、丸がひとつだけ書いてある。


 第三日曜。


 父の法要だ。


 場所は父が生まれた町の寺で、子どものころに何度か連れて行かれた。


 あの町へ行くのは、ずいぶん久しぶりになる。


 去年の同じ欄にも、同じ丸があった。


 去年は、行かなかった。


 私は手帳を閉じて、次の一枚をめくった。


 紙を打つ音だけが、部屋に残った。

最後までお読みいただき、ありがとうございました。


時間ができた時随時更新します!

ぜひお楽しみに!


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