表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
二十年、手を洗い続けた

この作品ページにはなろうチアーズプログラム参加に伴う広告が設置されています。詳細はこちら

128/152

第10話 まだ、残ってましたねぇ

最終話です。


 聴診器を、磨いた。


 二十年、抽斗の奥に、しまったままだった、あの古い聴診器。


 金属の部分が、黒く、曇っていた。


 布で、時間をかけて、拭いた。


 少しずつ、鈍い銀色が、戻ってきた。


 医者に、戻るわけでは、ない。


 もう、戻れない。


 戻る資格も、たぶん、ない。


 ただ、しまっておくのを、やめた。


 それだけの、ことだ。


   ◇


 あの日、商店街で倒れた女性は、助かった。


 しばらくして、商店街で、その人と再び会った。


 小さな女の子の手を引いていた。


 わたしは、修理を受け付けている店で、古い聴診器のゴム管と耳管を替えてもらい、その帰りだった。


 鞄からのぞいた耳管を、女の子が、じっと見ていた。


 礼を言われるのは、困る。


 わたしは、当然のことをしただけで――いや、当然でも、なかった。


 二十年、できなかったことだ。


「……聞いて、みますか」


 わたしは、言った。


「お母さんの、心臓の音」


 耳管を、その子の耳に、そっと、当てる。


 膜を、母親の胸に、当てる。


 女の子の目が、まん丸に、なった。


「動いてる」


 その子が、囁いた。


「お母さんの中で、なにか、動いてる」


 動いていますよ、と、わたしは言った。


 ずっと、動いています。


 あの日も、止まりませんでした。


 ――そこまでは、言葉にしなかった。


 ただ、その子の、驚いた顔を、見ていた。


 この聴診器は、たった今、生きている人の、生きている音を、拾っていた。


   ◇


 坂口様、と書いた便箋は、あれから、出した。


 すみませんでした、とは、書かなかった。


 書けなかった。


 代わりに、あの夜のことを、覚えているかぎり、正確に、書いた。


 何時に来られて、わたしが、何を診て、何を、見落としたか。


 詫びではなく、記録を。


 あなたの、お父さまが、どういう夜を、過ごされたか。


 それを知る権利が、あなたには、ある。


 そう、思ったから。


 返事は、短かった。


 白い便箋に、一行。


 読みました、と。


 その下に、線を引いて消した跡が、あった。


 何行か書いて、消したらしい。


 跡の上を、指でなぞってみたが、何と書いてあったのかは、読み取れなかった。


 あの人にも、二十年、誰にも言わずにきた言葉が、あるのだろう。


 わたしのと、同じように。


 それを、わたしが読んでいい道理は、ない。


 便箋を畳んで、抽斗にしまった。


 それきり、便りは、来ない。


 わたしと、あの若い男が、抱き合って泣くような日は、来ない。


 たぶん、これからも。


 道で会えば、会釈をする。


 それが、精一杯だ。


 二十年は、一通の手紙で、片づくものでは、ない。


 片づいて、いいものでも、ない。


   ◇


 その帰り、わたしは、川沿いの遊歩道を、歩いた。


 あの、糸目の男が、いつものベンチに、いた。


 背を、深く、丸めている。


 前に会ったときより、また、痩せた。


 頬が、削げ、唇の色が、悪い。


 首筋の脈の、浮き方。


 浅い、呼吸。


 膝の上の、細い、震え。


 この患者は、と、また、口の中で――いや。


 この、人は。


 わたしの目は、もう、止められない。


 読んでしまう。


 この身体は、坂を、また一段、下っていた。


 わたしは、医者だ。


 この人の身体の、どこが、どう壊れているか、たぶん、この町で、いちばん、正確に、見えている。


 見えて、いるのに。


 なにも、できない。


 治せない。


 二十年前も、そうだった。


 あの夜も、わたしの手は、あの人を、助けられなかった。


 わたしは、それを、二十年、自分の罪として、抱えてきた。


 治せなかったことを。


 けれど、この男は。


 治せない身体を、抱えたまま、こうして、川を、見ている。


 生きている。


 治らないことと、生きていることを、別のものとして、隣に、置いている。


 治せないことと、生きることは、別だ。


 この男の身体が、それを、わたしに、教えていた。


 言葉ではなく、ただ、そこに、生きて在ることで。


 二十年、わたしが、どうしても、離せずにいた二つを。


 男が、糸目を、ほんの少し、こちらへ、向けた。


 わたしが、手を出せないことを、とうに、知っている目だった。


 診てくれ、とも、言わない。


 治してくれ、とも。


 ただ、わたしが、自分の身体を、正確に読んだことを、見透かして――そのうえで、それでいい、というふうに、頬を、ゆるめた。


「……まだ、残ってましたねぇ」


 男は、言った。


 語尾を、伸ばして。


 なにが、と訊く前に、男の目は、わたしの手のあたりへ、落ちていた。


 たった今、女の子の耳に、当ててきた、その手。


 生きている音を、拾った、その手。


 わたしが、火を、渡した先。


 倒れた人。


 その人が、また、幼い誰かに。


 ――そういうものが、この町には、まだ、燻って、残っている。


 男は、たぶん、そう、言っていた。


 男は、ゆっくりと、立ち上がった。


 宿題は、なかった。


 「そうだ」の後に、置いていく、あの、小さな一つ。


 それを、この日、男は、置かなかった。


 ただ、携帯灰皿を、上着の内に、しまい、川べりを、上流のほうへ、歩き出した。


 背中が、細かった。


 治らない身体を、そのまま、抱えて。


 誰にも、治されないまま。


 わたしは、呼び止め、なかった。


 あの男の身体を、いちばん正確に読めるのは、たぶん、この町で、わたし、ひとりだ。


 そして、いちばん正確に読めるわたしに、さえ、あの身体は、どうにも、できない。


 できないまま、見送った。


 両手が、ふと、こすれ合いかけて――止まった。


 水は、ない。


 汚れも、たぶん、まだ、落ちては、いない。


 二十年の、あれは、そう簡単に、落ちるものでは、ない。


 落ちて、いいものでも、ない。


 けれど、この手は、今日、生きている子どもの耳に、母の、心臓の音を、渡してきた。


 落ちない手の、まま。


 それでも、その音を、拾えた。


 川の水が、光って、流れていた。


 糸目の男の背中は、もう、ずいぶん、小さくなっていた。


 やがて、通りの向こう、古びた雑居ビルの、いちばん上。


 十階の窓のあたりから、いつも、まっすぐに昇っていた、あの細い煙が――今日は、見えなかった。

最後までお付き合いいただき、ありがとうございました。


 何か残るものがありましたら、★での評価をいただけると嬉しいです。


評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ