第10話 まだ、残ってましたねぇ
最終話です。
聴診器を、磨いた。
二十年、抽斗の奥に、しまったままだった、あの古い聴診器。
金属の部分が、黒く、曇っていた。
布で、時間をかけて、拭いた。
少しずつ、鈍い銀色が、戻ってきた。
医者に、戻るわけでは、ない。
もう、戻れない。
戻る資格も、たぶん、ない。
ただ、しまっておくのを、やめた。
それだけの、ことだ。
◇
あの日、商店街で倒れた女性は、助かった。
しばらくして、商店街で、その人と再び会った。
小さな女の子の手を引いていた。
わたしは、修理を受け付けている店で、古い聴診器のゴム管と耳管を替えてもらい、その帰りだった。
鞄からのぞいた耳管を、女の子が、じっと見ていた。
礼を言われるのは、困る。
わたしは、当然のことをしただけで――いや、当然でも、なかった。
二十年、できなかったことだ。
「……聞いて、みますか」
わたしは、言った。
「お母さんの、心臓の音」
耳管を、その子の耳に、そっと、当てる。
膜を、母親の胸に、当てる。
女の子の目が、まん丸に、なった。
「動いてる」
その子が、囁いた。
「お母さんの中で、なにか、動いてる」
動いていますよ、と、わたしは言った。
ずっと、動いています。
あの日も、止まりませんでした。
――そこまでは、言葉にしなかった。
ただ、その子の、驚いた顔を、見ていた。
この聴診器は、たった今、生きている人の、生きている音を、拾っていた。
◇
坂口様、と書いた便箋は、あれから、出した。
すみませんでした、とは、書かなかった。
書けなかった。
代わりに、あの夜のことを、覚えているかぎり、正確に、書いた。
何時に来られて、わたしが、何を診て、何を、見落としたか。
詫びではなく、記録を。
あなたの、お父さまが、どういう夜を、過ごされたか。
それを知る権利が、あなたには、ある。
そう、思ったから。
返事は、短かった。
白い便箋に、一行。
読みました、と。
その下に、線を引いて消した跡が、あった。
何行か書いて、消したらしい。
跡の上を、指でなぞってみたが、何と書いてあったのかは、読み取れなかった。
あの人にも、二十年、誰にも言わずにきた言葉が、あるのだろう。
わたしのと、同じように。
それを、わたしが読んでいい道理は、ない。
便箋を畳んで、抽斗にしまった。
それきり、便りは、来ない。
わたしと、あの若い男が、抱き合って泣くような日は、来ない。
たぶん、これからも。
道で会えば、会釈をする。
それが、精一杯だ。
二十年は、一通の手紙で、片づくものでは、ない。
片づいて、いいものでも、ない。
◇
その帰り、わたしは、川沿いの遊歩道を、歩いた。
あの、糸目の男が、いつものベンチに、いた。
背を、深く、丸めている。
前に会ったときより、また、痩せた。
頬が、削げ、唇の色が、悪い。
首筋の脈の、浮き方。
浅い、呼吸。
膝の上の、細い、震え。
この患者は、と、また、口の中で――いや。
この、人は。
わたしの目は、もう、止められない。
読んでしまう。
この身体は、坂を、また一段、下っていた。
わたしは、医者だ。
この人の身体の、どこが、どう壊れているか、たぶん、この町で、いちばん、正確に、見えている。
見えて、いるのに。
なにも、できない。
治せない。
二十年前も、そうだった。
あの夜も、わたしの手は、あの人を、助けられなかった。
わたしは、それを、二十年、自分の罪として、抱えてきた。
治せなかったことを。
けれど、この男は。
治せない身体を、抱えたまま、こうして、川を、見ている。
生きている。
治らないことと、生きていることを、別のものとして、隣に、置いている。
治せないことと、生きることは、別だ。
この男の身体が、それを、わたしに、教えていた。
言葉ではなく、ただ、そこに、生きて在ることで。
二十年、わたしが、どうしても、離せずにいた二つを。
男が、糸目を、ほんの少し、こちらへ、向けた。
わたしが、手を出せないことを、とうに、知っている目だった。
診てくれ、とも、言わない。
治してくれ、とも。
ただ、わたしが、自分の身体を、正確に読んだことを、見透かして――そのうえで、それでいい、というふうに、頬を、ゆるめた。
「……まだ、残ってましたねぇ」
男は、言った。
語尾を、伸ばして。
なにが、と訊く前に、男の目は、わたしの手のあたりへ、落ちていた。
たった今、女の子の耳に、当ててきた、その手。
生きている音を、拾った、その手。
わたしが、火を、渡した先。
倒れた人。
その人が、また、幼い誰かに。
――そういうものが、この町には、まだ、燻って、残っている。
男は、たぶん、そう、言っていた。
男は、ゆっくりと、立ち上がった。
宿題は、なかった。
「そうだ」の後に、置いていく、あの、小さな一つ。
それを、この日、男は、置かなかった。
ただ、携帯灰皿を、上着の内に、しまい、川べりを、上流のほうへ、歩き出した。
背中が、細かった。
治らない身体を、そのまま、抱えて。
誰にも、治されないまま。
わたしは、呼び止め、なかった。
あの男の身体を、いちばん正確に読めるのは、たぶん、この町で、わたし、ひとりだ。
そして、いちばん正確に読めるわたしに、さえ、あの身体は、どうにも、できない。
できないまま、見送った。
両手が、ふと、こすれ合いかけて――止まった。
水は、ない。
汚れも、たぶん、まだ、落ちては、いない。
二十年の、あれは、そう簡単に、落ちるものでは、ない。
落ちて、いいものでも、ない。
けれど、この手は、今日、生きている子どもの耳に、母の、心臓の音を、渡してきた。
落ちない手の、まま。
それでも、その音を、拾えた。
川の水が、光って、流れていた。
糸目の男の背中は、もう、ずいぶん、小さくなっていた。
やがて、通りの向こう、古びた雑居ビルの、いちばん上。
十階の窓のあたりから、いつも、まっすぐに昇っていた、あの細い煙が――今日は、見えなかった。
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