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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
二十年、手を洗い続けた

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第9話 医師です

夕方の、混んだ電車から。


 夕方の、混んだ電車の中だった。


 吊り革につかまった俺の、斜め前で、スーツの男が、青い顔をしていた。


 額に、脂汗。


 膝が、時々、折れかける。


 まわりは、誰も、気づいていない。


 みんな、手もとの画面を、見ている。


 次の駅で、俺は、降りる。


 乗り換えだ。


 ドアが開けば、この男のことなど、じきに忘れる。


 二十年、俺はそうやって、たくさんの人の前を、通り過ぎてきた。


 大したことない。


 きっと、大丈夫。


 そう思うことに、して。


 あの朝、父を置いて、家を出たように。


 ドアが、開いた。


 俺は、降りなかった。


「……あの」


 声が、掠れた。


「大丈夫、ですか。顔色が、すごく」


 男は、俺を見上げて、力なく笑った。


 「いや……ちょっと、疲れてて」


 大したことないですよ。


 男は、そう言おうとしていた。


 二十年前の、俺と、同じ声で。


「次で、一緒に、降りましょう」


 俺は言った。


 自分でも、驚くくらい、はっきりした声が、出た。


「駅員さんに、言います。ちゃんと、診てもらったほうがいい。……送りますから」


 見送るんじゃ、ない。


 送るんだ。


 電車が、揺れた。


 俺は、男の腕を、そっと、支えた。


 あの朝、父にできなかったことを、二十年遅れで、名前も知らない誰かに、していた。


   ◇


 便箋の、一行目で、ペンが、止まっていた。


 坂口様、と書いて、それきり、二日、動かない。


 あの十階で会った、若い男。


 坂口、と呼ばれていた、あの人の、家。


 二十年前の、示談の紙に、記された住所。


 命日のたびに、門の前まで行っては、呼び鈴を押せずに、帰ってきた、あの家。


 すみませんでした、とは、書けなかった。


 あの日、あの部屋で、言えなかったのと、同じだった。


 その一言で、二十年が、片づいてしまう気がして。


 書きたいのは、たぶん、謝罪では、ない。


 では、なんなのか。


 わたしには、まだ、分からない。


 ペンを、置く。


 両手が、こすれ合う。


 水は、ない。


 この手は、坂口様、の、次の一行を、どうしても、越えられずにいる。


 わたしは、上着を、羽織った。


 日に一度の、散歩の刻限だった。


   ◇


 商店街は、夕暮れの色をしていた。


 行き交う人を、目が、勝手に読む。


 もう、癖だ。


 あの人は眠っていない、あの子は熱がある――と、指の先まで、言葉が満ちて、そのたびに、わたしは唇を結ぶ。


 前を歩いていた女性が、ふいに、傾いだ。


 買い物袋が、手から落ちた。


 膝が、折れる。


 人の輪が、ざっと、割れて、空く。


 二十年前の、あの日と、同じだった。


 あの老人と、同じ、崩れ方だった。


「――」


 考える前に、わたしの膝は、もう、地面についていた。


 ポケットの中で丸めていた指が、開いていた。


 止まらなかった。


 あの日、地面の一寸手前で止まった手が、今日は、止まらなかった。


「医師です」


 二十年、一度も、言えなかった言葉が、出た。


「わたしは、医師です。診ます」


 まわりの誰かに、救急車を、と告げる。


 声は、震えなかった。


 女性の傍らに膝をつき、気道を確かめ、脈をとる。


 この患者は――と思って、違う、とは、もう、言い直さなかった。


 今は、それでいい。


 今は、この人を、診る。


 助かるかどうかは、わたしには、分からない。


 二十年前も、分からなかった。


 医者だった頃も、分からなかった。


 人の生き死には、いつも、わたしの手の、少し先にある。


 それでも、手を、当てた。


 サイレンが、近づく。


 救急隊が、駆けてくる。


 わたしは、この人の容態を、覚えているかぎり、正確に、隊員へ渡した。


 主訴、経過、いま分かること。


 二十年ぶりに、その言葉たちは、澱みなく、口をついた。


 担架が、遠ざかる。


 赤い光が、路地の壁を、なめて、消えた。


 わたしは、路上に、膝をついたまま、動けずにいた。


 両手を、見た。


 こすれ合って、いなかった。


 水のない汚れを探す、あの動きを、していなかった。


 この手は、たった今、生きている人に、触れていた。


 まだ、その温もりが、残っている。


 顔を上げると、通りの向こう、雑居ビルの、いちばん上。


 十階の窓のあたりから、細い煙が、一筋、まっすぐに、昇っていた。


 今日も、揺れずに。


 誰も、降りては、こなかった。


 あの糸目の男は、なにも、しなかった。


 ただ、遠くで、煙を、立てているだけだった。


 わたしは、自分の手を、握った。


 まだ、落ちない。


 それは、変わらない。


 けれど、この手は、二十年ぶりに、止まらなかった。


 家に帰れば、机の上に、書きかけの便箋が、置いてある。


 坂口様、と書いたきりの、あれが。


 まだ、一行も、進んでいない。


 読んでくださって、ありがとうございます。

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