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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
二十年、手を洗い続けた

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第8話 それは、あなた一人の仕事でしたか

十階へ、もう一人、上がってきます。


 十階までは、階段で上がった。


 エレベーターが、また途中で止まる気がして、途中で、降りた。


 息が、上がっていた。


 人の生き死にを間近で見た日は、いつも、身体のほうが、正直になる。


 狭い廊下の突き当たりに、少し古びた扉が、一枚あった。


 灯りは、点いていない。


 それでも、細い煙草の匂いが、隙間から、流れてきた。


「……開いて、ますよー」


 中から、間延びした声がした。


 川べりで会った、あの糸目の男だった。


 わたしは、扉を開けた。


 古い紙の匂いと、灰の匂い。


 男は、擦り切れたソファに、深く沈むように座っていた。


 痩せていた。


 川べりで見たときより、もっと。


 頬が、削げている。


 この男の身体は、どこかが、静かに、壊れ続けている。


 医者の目が、勝手に、そう読んだ。


 読んだところで、どうにもならない。


 わたしには、もう、なにも。


「今日」


 わたしは、立ったまま、言った。


「目の前で、人が、倒れました。……わたしは、手が、動きませんでした」


 男は、答えなかった。


 ただ、湯呑みを、二つ、低いテーブルに、並べた。


 まるで、もう一人、来るのを、知っているように。


「償う手すら、もう、動かないのなら」


 わたしは、言った。


「わたしは、いったい、なんのために、生きて」


「もうすぐ、来ますよー」


 男は、語尾を、伸ばした。


「あなたに、会いに」


 誰が、と訊く前に、廊下に、足音がした。


 磨りガラスに、人影が、映る。


 若い。


 迷いながら、それでも、まっすぐ、こちらへ来る足音だった。


 扉が、開いた。


 三十半ばの、男だった。


 会社勤めらしい、スーツの。


 わたしの知らない顔で、男もまた、わたしを、知らないようだった。


 ただ、糸目の男に向かって、掠れた声で、言った。


「……下ろしたいものが、あるなら、って、聞いて」


 男は、勧められるまま、テーブルの向こうに、浅く、腰を下ろした。


 膝の上で、拳を、握っている。


 わたしのことなど、目に入っていない。


 糸目の男だけを見て、堰を切るように、話し始めた。


「二十年前に、父が、死にました。腹が痛いって、言ってたのに……あの朝、俺、学校に遅れそうで。大げさだよ、寝てれば治るって、そう言って、送り出して」


 湯呑みの湯気が、まっすぐ、立っていた。


「その夜、父は、一人で、病院に行って。……軽症です、帰って大丈夫ですよって、言われて、帰されて。翌朝、蒲団の中で、冷たく、なってました」


 わたしの、両手が、止まった。


 膝の上で、いつのまにか、また、こすれ合っていた両手が、止まった。


 軽症です、帰って大丈夫ですよ。


 その声を、二十年、わたしは、忘れたことがない。


 にこやかで、落ち着いていて、迷いのない、あの夜の、わたしの声だ。


 この若い男の、父親を。


 わたしが、帰した。


 わたしの、あの声が。


 言ってはいけない、と思った。


 それでも、口が、勝手に、動いた。


 二十年、誰にも言えなかった言葉が、この、遺族の前で、堰を切る。


「……その、患者は」


 わたしは、言った。


「いえ。……その、お父さまは」


 男が、初めて、わたしを、見た。


「腹痛の、主訴で。夜間に、来られた。わたしが、診て、既往を、とって……軽症だと、判断して、帰しました。あの夜の、当直医は」


 わたしは、頭を、下げることも、できずに、言った。


「わたしです」


 男の顔から、色が、引いた。


「……あんたが」


 声が、震えた。


 拳が、白くなるほど、握りしめられた。


 二十年、顔も名も知らずに恨んできた相手が、いま、目の前に、いた。


 若くもなく、傲慢でもなく、ただ、痩せて、水もないのに手をこすり合わせている、老いた男として。


 わたしは、逃げなかった。


 この人には、殴る権利がある。


 むしろ、殴ってほしかった。


 二十年、この日を恐れながら、そのために待っていた気さえする。


 終わらせてくれ、と、どこかで、思っていた。


 男の呼吸が、変わった。


 わたしの目は、こんなときにも、勝手に、読む。


 肩の上下が、速い。


 首筋の脈が、数えられるほどに、浮いている。


 顎に、力が入りすぎて、細かく、震えている。


 この人は、いま、自分の身体を、どうにか、押さえつけている。


 ――読むな、と思った。


 この身体を、二十年、こうさせてきたのは、わたしだ。


 拳が、一度、上がりかけた。


 上がりきらない。


 行き場をなくした手が、膝の上で、止まった。


 二十年、わたしの手が、あの門のインターホンの前で止まったのと、同じ高さで。


 男は、立ち上がりも、しなかった。


 殴りも、しなかった。


 ただ、握った拳を、ゆっくりと、開いた。


「……ずっと」


 男は、言った。


「あんたを、恨んで、生きてきた。あんたが、ちゃんと診てくれてれば、父は、死ななかった。そう思ってれば」


 目が、わたしから逸れて、床へ、落ちた。


「そう思ってれば……あの朝、大げさだよって、父を置いて出た、俺の声を聞かずにいられたから」


 男は、掠れた声で、続けた。


「あなたを、恨むことで……俺は、自分を、許してきたんだ」


 その一言が、わたしの、いちばん深いところを、貫いた。


 同じだ、と思った。


 わたしも、二十年、自分を罰することで、償いから、逃げていた。


 罰しているあいだは、なにもしなくて、いい。


 この男は、恨むことで。


 わたしは、罰することで。


 二人とも、同じ場所に、立ち尽くして、いた。


 糸目の男が、初めて、口を、開いた。


 語尾は、伸びなかった。


「白石さん」


 男は、静かに、言った。


「その夜のことは、七階で、もう、聞かれたんでしょう。……それで、なにか、軽くなりましたか」


 わたしは、答えられなかった。


「それは」


 男は、まっすぐに、言った。


「あなた一人の、仕事でしたか」


 答えは、喉の奥で、つかえた。


 男は、こんどは、若いほうへ、目を、向けた。


「坂口さんも。あの朝、お父さまを置いて、家を出た。……でも、夜の病院で帰したのは、あなたじゃない」


 二人のあいだに、湯気が、二筋、立っていた。


「お二人とも」


 男は、言った。


「たくさんのことを、越えて、生きてこられた。二十年、ちゃんと。……越えられなかったのは、あの、一つだけ、でしょう」


 それだけ言うと、男は、また、口を、閉じた。


 答えは、くれなかった。


 どちらの手を握れとも、どちらが悪いとも、言わなかった。


 ただ、わたしたちが、二十年、混ぜてきたものを、一つずつ、離して、テーブルの上に、並べて、みせただけだった。


 わたしと、若い男。


 テーブルを挟んで、向かい合ったまま。


 言わなければならない言葉が、ある。


 すみませんでした、という言葉が、喉まで、来ていた。


 けれど、それを言えば、この二十年が、たった一言で、片づいてしまう気がして、わたしは、言えなかった。


 それは、あの人の死を、安くすることのように、思えた。


 男も、なにか、言いかけては、口を、閉じた。


 あんたのせいだ、とも、あんたのせいじゃない、とも、言えずに。


 二人とも、宙に、吊られたまま、動けなかった。


 湯呑みの湯気だけが、二筋、まっすぐに、立ち昇って、天井の手前で、細く、ほどけて、消えた。


 若い男が、先に、立ち上がった。


 扉のところで、一度だけ、止まった。


 こちらを見ずに、言った。


「……あの夜のことを」


 声が、掠れていた。


「知ってるのは、あんただけだ」


 扉が、閉まった。


 わたしは、その場に、残された。


 二十年、誰にも言えなかったことを、いま、言えと言われた気がした。


 言う相手が、はじめて、この世に、いた。


答えをもらえないまま、二人とも動けずにいる回でした。

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