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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
二十年、手を洗い続けた

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第7話 救えない手

ビルの玄関口から。

人の輪が、できています。


 男は、答えなかった。


「なぜ、自分を、罰さないのですか」


 ――わたしの問いに、糸目の男は、川のほうへ、目を戻したきりだった。


 水の音だけが、二人のあいだを、流れていった。


 答える気が、ないのではない。


 この男は、答えを、わたしに、渡さないのだ。


 それが、答えのかわりだった。


 わたしは、立ち上がった。


 何も、下ろせないまま。


 それで、いい。


 わたしのような人間が、軽くなっては、いけない。


 足は、また、あのビルのほうへ、向いていた。


 なぜ戻るのか、分からない。


 ただ、あの十階の煙が、まだ、見える気が、した。


 ビルの、狭い玄関口に、人の輪が、できていた。


 輪の中心で、宅配の制服を着た男が、床に、倒れていた。


 五十がらみ。


 うつ伏せに近い形で、肩だけが、大きく、上下している。


 伝票の束が、そばに、散らばっていた。


「聞こえますか。しっかり」


 誰かが、肩を、軽く叩いている。


 返事は、ない。


 わたしの目が、勝手に、読み始めた。


 唇の色。


 首筋。


 呼吸の、深さと、間隔。


 この患者は――いや。


 この、人は。


 まずい。


 頭の中で、数字が、並ぶ。


 救急隊が来るまでの、そのわずかな時間を、繋ぐ手が、要る。


 わたしには、その手が、ある。


 二十年、封じてきた、その手が。


 わたしは、前へ、出た。


 人の輪を、割って、膝を、床へ。


 ここまでは、身体が、動いた。


 あとは、手を、当てるだけだ。


 二十年前、正しく当てられなかった手を、いま、この人に。


 ――手が、動かなかった。


 右手を、上げようとした。


 上がらない。


 指が、床に、貼りついたように、動かない。


 あの朝、わたしの「軽症です」を信じて帰った、あの人の顔が、この、見知らぬ男の顔に、重なる。


 もし、この手が、読み違えたら。


 この人を、殺したら。


 二十年前と、同じことを。


 手は、震えるだけで、上がらなかった。


「どいて、ください」


 背後から、迷いのない足取りで、女が、膝をついた。


 男の顎を、上げ、気道を、確保する。


 落ち着いた手つきだった。


 何度か、エレベーターで乗り合わせた人だ。


 いつも、四階で降りる。


 案内板の四階には、神宝こころクリニック、とあった。


 その院長の名が、神崎だった。


 神崎は、救急隊が来るまでの数分を、つきっきりで、繋いだ。


 やがてサイレンが来て、担架が、男を、運んでいった。


 わたしの、出る幕は、なかった。


 今度も。


 人の輪が、ほどけていく。


 わたしは、膝をついたまま、上がらなかった右手を、左手で、包んでいた。


 また、こすっていた。


 水も、ないのに。


 爪の間を、指の股を。


 まだ、落ちない。


 今日、また、増えた。


「先生」


 声に、顔を、上げた。


 神崎が、隣に、しゃがんでいた。


 責める目では、なかった。


 憐れむ目でも。


 ただ、こちらを、見ていた。


「さっき。既往は、って、口が、動いてました」


 神崎は、静かに言った。


「主訴。所見。……先生、お医者さん、ですね」


 説明を、求める声では、なかった。


 同じ職業の者だけが、かぎ分ける、においを、当てられた。


「もう」


 わたしは、掠れた声で、言った。


「……医者では、ありません」


 神崎は、否定も、肯定も、しなかった。


 「わたしも、人を、繋ぐのは、下手です。繋げなかった相手を、何人も、覚えています。……先生も、そうでしょう」


 説教では、なかった。


 慰めでも。


 同じ職業の距離で、神崎は、わたしの、震える手の甲に、そっと、自分の手を、重ねた。


 温かかった。


 人の手だった。


 二十年、誰にも、触れさせなかった手に、同じ仕事をした手が、重なっていた。


 わたしは、耐えられなかった。


 手を、引いた。


 乱暴に、なる。


 神崎は、驚かなかった。


 行き場をなくした自分の手を、膝の上に戻して、しばらく、そのまま。


「わたしは、四階です」


 やがて、そう言った。


「上がってくるのは、たいてい、もう限界の人ばかりで。……先生みたいに、下で立ってる人のほうが、こわいんです」


 それだけ言って、神崎は、立ち上がった。


 膝についた埃を、丁寧に、払っている。


 人の身体に触れる仕事をしてきた人の、手つきだった。


「わたしも、四十年、同じ道を通ってます」


 背を向けたまま、そう言った。


「通るだけの日も、ありますよ」


 この手は、二十年前、一人を、帰した。


 今日、目の前の一人にも、動かなかった。


 温めてもらう資格など、ない。


 当てられた手の温かさが、かえって、わたしを、抉った。


 あの夜から、わたしは、一歩も、動いていない。


 ――では。


 あの夜、腹を押さえて、わたしの前に、座っていた、あの人は。


 「軽症です」と、わたしに、帰された、あの人は。


 誰の、せいで、死んだのか。


 わたしのせいだ、と、二十年、思ってきた。


 けれど、その問いは、いま、初めて、行き場を変えて、わたしの手を、離れていった。


 あの人には、家族が、いた。


 示談の紙の、いちばん上の、名。


 あの人を、あの夜、病院へ、行かせた――あるいは、行かせなかった、誰かが。


 あの人は、誰の、せいで、死んだのか。


   ◇


 その問いは、二十年前から、俺の中に、あった。


 俺は、その答えを、知っている。


 ずっと、知っていた。


 あの朝、「大げさだよ、寝てれば治るって」と言い、父を置いて家を出たのは、俺だ。


 医者が「軽症」と言うより先に、俺が言った。


 父の背中を蒲団に押し戻したのは、あの医者じゃない。


 俺の口だ。


 だから俺は、二十年、その医者を、恨んできた。


 恨んでいるあいだだけ、俺は、自分の口のことを、忘れて、いられた。


 ――でも、もし。


 もし、その医者もまた、二十年、同じ問いの前で、立ち尽くしていたのだとしたら。


 俺は、まだ、その男の、顔も、名も、知らない。


 知らないまま、俺たちは、二十年、同じ一人の死を、両側から、抱えて、生きてきた。


お読みいただき、ありがとうございます。


 同じ道を通るだけの日がある人は、たぶん一人ではないのだと思います。

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