第6話 インターホンの前で
二十年、通り過ぎてきた門から。
二十年、わたしは、その門の前を、通り過ぎてきた。
命日の道すがら、速度をゆるめもせず、目も向けず。
近づけば、詫びたくなる。
詫びれば、楽になる。
楽になってはいけない。
だから、通り過ぎた。
それが、わたしの決めた「けじめ」だった。
その日、わたしは、門の前で、足を止めた。
室田という男の声が、まだ、耳の奥に残っていた。
あんた、誰かに、裁いてほしいだけじゃないのか。
――そうだ。
ならば、裁かれに来ればいい。
この扉を叩いて、頭を下げればいい。
あなたのご家族を死なせたのは、わたしです、と。
殴られても、罵られても、いい。
それで、ようやく。
古い一戸建てだった。
低い門。
すり減った表札に、二文字。
坂口。
その名を、わたしは、二十年、忘れたことがない。
示談の紙の、いちばん上に、印字されていた名だ。
門の内側に、インターホンがあった。
白い、四角い、押しボタン。
わたしは、右手を、上げた。
指が、ボタンへ、伸びる。
あと、一寸。
――そこで、手が、止まった。
押せば、この家の中の、誰かが、出てくる。
その顔を見た瞬間、二十年前のあの朝、わたしの声を信じて眠りについた人の面影が、そこに、重なる。
それに、耐えられる気が、しなかった。
伸ばした指が、行き場をなくして、宙で、震えた。
やがて、その手は、ボタンではなく、もう片方の手を、探し当てた。
右の甲を、左の指が、こすり始める。
門の前で、水もないのに、わたしは、手を洗っていた。
まだ、落ちない。
わたしは、踵を返した。
逃げるように、その門から、離れた。
二十年、通り過ぎることは、できたのに。
立ち止まって、あと一寸を、押すことは、できなかった。
近づいたぶんだけ、わたしは、遠ざかった。
◇
その日、俺は、実家の、二階の窓辺にいた。
母の様子を見に、久しぶりに戻っていた。
することもなく、ぼんやりと外を眺めていたとき、門のところに、人が立っているのが、見えた。
年配の男だった。
俺の知らない顔だ。
門の前で、インターホンに手を伸ばしかけて――そのまま、止まっている。
押すでも、帰るでもなく、ただ、突っ立っている。
新聞の勧誘か、なにかの宗教か。
窓を開けて声をかけようとしたとき、男は、上げた手を、ゆっくりと、下ろした。
そして、逃げるみたいに、足早に、去っていった。
誰かが、門の前まで来て、帰っていった。
それだけの、ことだ。
それだけのことだったのに、俺は、しばらく、誰もいなくなった門の前を、見下ろしていた。
◇
わたしは、あてもなく、歩いた。
どこをどう歩いたのか、覚えていない。
帰る気には、なれなかった。
足は、家とは逆へ、逆へと向かった。
気づけば、神宝町の、あのビルから、そう遠くない、川沿いの遊歩道に出ていた。
古びたベンチに、人が、一人、座っていた。
あの、糸目の男だった。
十階の。
名乗る前に、二十年、洗ってないでしょう、と言い当てた男。
だが、その姿は、あの部屋で見たときと、違っていた。
背を、深く、丸めている。
膝の上の携帯灰皿に、火の消えた煙草が、一本、置かれたままだった。
吸いさしに、手を伸ばす気力すら、ないように見えた。
わたしの、封じたはずの目が、また、勝手に、読み始めた。
既往は――と、声にならない声が、口の中で動く。
この患者は……いや。
この、方は。
頬の血の気が、あの日より、さらに、引いている。
唇の色は、紫がかって、乾いている。
首筋の静脈の浮き方。
浅く、間遠な、呼吸。
膝の上の手が、細かく、震えている。
あの部屋では、まだ「崩れかけている」だった。
いまは、その坂を、一段、下っていた。
医者だった目が、それを、冷たいほど正確に、読んだ。
男は、わたしに、気づいた。
糸目を、ほんの少し、こちらへ向けた。
けれど、名乗りも、とぼけも、伸びた語尾も、なかった。
ただ、「……あぁ」とだけ、こぼした。
それきり、また、川のほうへ、目を戻した。
宿題は、なかった。
あの、「そうだ」の後に置いていく、小さな一つ。
それが、今日は、なかった。
この男は、ただ、そこに、居た。
壊れかけた身体を、ベンチにあずけて、流れる水を、眺めていた。
治らない、と、この男は言った。
とっくに知っている、と。
手遅れでも、生きていくのだ、罰を、受けなくても、と。
わたしは、生まれて初めて、そういう人間を、見ていた。
治せない身体を、その手で抱えたまま、それでも、自分を、罰さずに、いる人間を。
わたしなら、耐えられない。
この身体を、この目で読んでしまったら。
とっくに、壊れている。
なのに、この男は、川を、見ている。
ただ、静かに、生きている。
わたしは、気づけば、口を、開いていた。
「なぜ」
声が、掠れた。
「なぜ、あなたは……自分を、罰さないのですか」
近づいたぶんだけ遠ざかってしまう、そんな回でした。




