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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
二十年、手を洗い続けた

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第5話 あの夜の当直表

七階の住人初登場。


 三晩、眠れなかった。


 あの糸目の男の、凪いだ目が、瞼の裏に貼りついて離れない。


 手遅れだと告げられて、怯えもしなかった男。


 その目の意味が、どうしても、掴めずにいた。


 だから、また、あのビルへ来た。


 十階へ、ではない。


 あの男に会うのが、怖かった。


 ただ、あのビルの前に立てば、何か、片がつく気がした。


 エントランスで、声をかけられた。


「よう。あんた、この前も、来てたな」


 振り返ると、痩せた老人が立っていた。


 白髪を短く刈り込み、年の頃は、わたしと変わらない。


 指の間で、将棋の駒を一つ、くるくると回している。


 壁のプレートに、「七階 室田調査事務所」とあった。


「顔に、出てるぞ」


 老人は、駒の手を止めずに言った。


「三日は、寝てないな。目の下と、指先を見りゃ、わかる。……昔、そういう仕事だった」


 値踏みする目だった。


 何もかもを見透かして凪いでいる、あの十階の男とは違う。


 こちらは、獲物を追う目だ。


「なんも知らんよ。ただ、うちのビルに、妙な顔で出入りする客がいると、気になる性分でな」


 老人は、顎で、自分の事務所を指した。


「茶ぐらい、出す」


 断る理由が、思いつかなかった。


 狭い事務所だった。


 壁一面の棚に、番号を振ったファイルが詰まっている。


 室田、と名乗ったその男は、盤を挟んでわたしを座らせ、湯呑みを置いた。


「十階の先生に、会ってきたんだろう」


 わたしは、湯呑みに伸ばした手を、止めた。


「あの人はな。答えは、くれん。問いだけ、置いていく」


 室田は、駒を並べ始めた。


「で、あんたは、その問いを抱えたまま、下りてきた。……ちがうか」


「――何が、おわかりに」


「顔だ」


 室田は、短く言った。


「二十年、同じことを、考え続けてきた顔だ。そういう顔は、いやってほど、見てきた」


 わたしは、湯呑みを、両手で包んだ。


 手が、こすれ合いそうになるのを、そうやって、押さえた。


 そして、話していた。


 二十年前の、あの夜のことを。


 人を一人、軽症だと言って帰し、翌朝、亡くしたこと。


 その患者……いえ、その方の遺族が、いまも、わたしを――。


「待て」


 室田が、遮った。


「その晩、当直は、あんた一人だったのか」


 わたしは、頷いた。


「一人でした。夜間の内科当直は、わたし一人。それが、あの病院の、その頃の体制でした」


 室田は、立ち上がり、棚から、色の褪せた薄いファイルを一冊、抜き出した。


「調べた」


 わたしは、息を、呑んだ。


「悪趣味だと、思ってくれていい。あんたが病院名と日付を口にしたから、少し、辿ってみた。当時の新聞。病院の年報。それから、もう辞めた職員に三人、会った」


 室田は、ファイルを開かず、盤の脇に置いた。


 開かないことに、意味があるように。


「あの晩、内科の当直は、確かに、あんた一人だった。三人とも、同じことを言った。あんたはその夜、応援を、一度、頼んでる。電話を受けた看護師も、それを覚えていた。……誰も、来なかったな」


 覚えていた。


 忘れられるはずが、なかった。


 手が離せない、そちらで持ちこたえてくれ、と告げた電話の声も。


 受話器を置いた、あの音まで。


「もう一つ」


 室田は、指を、立てた。


「その頃、夜間検査に使う機械が、一つ、故障していた。放射線技師だった人が、修理まで二か月かかったと話した。人も、減らしてた。……あんたの病院は、あの年、ずいぶん、しわ寄せの下に、いたらしいな」


 一人の当直。


 届かなかった、応援。


 動かない、機械。


 二十年ぶりに外から差し出された、あの夜の輪郭だった。


 だが。


 わたしは、その輪郭を受け取った、まさにその手で、こう考えていた。


「――なら、なおのこと」


 声が、掠れた。


「機械が使えないと、わかっていたのなら。わたしは、この目で、この手で、補うべきだった。応援が来ないなら、来ないなりに、もっと強く、食い下がるべきだった。人手が足りないと知っていて、その当直を引き受けたのは、わたしだ。だから……結局は、全部、わたしの――」


「おい」


 室田の声が、低くなった。


 彼は、盤の駒を、一つ、静かに、指で倒した。


「気づいてるか。……いま、俺は、あんたを楽にする話を、三つ、並べた。一人当直も、来なかった応援も、壊れた機械も、全部、あんた一人の失点じゃない、って話だ。なのに、あんたは」


 室田は、倒した駒を、わたしのほうへ、押しやった。


「その三つを、片っ端から、自分の罪に、詰め替えた」


 言葉が、出なかった。


「長いこと、人を調べる仕事をしてた。……いちばん、たちが悪いのはな。他人にじゃなく、自分に、つく嘘だ」


「あんた、真相が、欲しいんじゃないな」


 わたしを見る目が、初めて、少しだけ和らいだ。


 哀れむのとは、違う。


 かつて同じ穴の底にいた者だけが浮かべる、静かな目だった。


「あんた……誰かに、裁いてほしいだけじゃ、ないのか」

 いつも読んでくださって、ありがとうございます。


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