第4話 二十年、洗ってないでしょう
十階の部屋に、着きました。
部屋は、思ったより、狭かった。
壁一面の、古びた書棚。
革の擦り切れたソファが一つと、低いテーブル。
窓は一つきりで、そのそばに、痩せた男が座っていた。
糸のように細めた目。
膝の上に、携帯灰皿。
指の間で、細い煙草が一本、灰を落とさずに燃えている。
わたしが名を告げるより先に、その男は、口を開いた。
「――その手ぇ」
男は、わたしの両手を見ていた。
入ってきてから、わたしは無意識に、右の甲を左の指でこすっていたらしい。
あわてて止めようとした手を、糸目が、静かに追う。
「ずいぶん、長く、洗ってらっしゃいますねぇ」
男は、語尾を、細く伸ばした。
「……二十年、くらい、ですか」
息が、止まった。
名も告げていないわたしの手を、この男は、二十年、と読んだ。
誰にも見せたことのない癖を。
「……何を、ご存じなのですか」
やっと、声が出た。
「あなたは、いったい」
「なんにも、知りませんよー」
男は、にこ、と笑った。
煙を、細く吐く。
「ぼく、ね、ただの、相談屋ですから」
それから、思い出したように、上着の内側を探って、細い紙を、一枚、差し出した。
白くて、飾りのない名刺だった。
刷ってあるのは、名と、電話番号だけ。
住所も、肩書きらしい肩書きも、ない。
慈恩 気づかせ屋。
「……じおん、さん」
「ええ」
男は、また、煙を吐いた。
「変、ですよ」
「……白石です」
紙をもらった手前、そう名乗った。
「白石、敬三」
男は、名のほうは、聞き流したように、にこにこしていた。
手のことは、あれだけ正確に読んだのに。
わたしは、擦り切れたソファに、崩れるように腰を下ろした。
膝に、力が入らなかった。
二十年、誰にも言えなかったことが、喉の奥から、勝手に、せり上がってきた。
「わたしは、人を、一人」
声が、掠れた。
「軽症だと言って、帰した。その患者は……その、方は、翌朝、亡くなりました。わたしの、見落としで。二十年、償ってきたつもりです。それでも、足りない。だから――」
「あー」
男が、ふいに、間延びした声を出した。
わたしの言葉を、やわらかく、遮るように。
「ひとつ、いいですかー。……あなた、いま、償い、って、言いましたよねぇ」
「言いました」
「でも、さっきから、あなたのその手は」
男は、灰皿に、煙草を置いた。
「償い、じゃなくて、罰を、探してる」
伸びていた語尾が、そこで、消えた。
「償いは、生きてる人のために、するものでしょう。罰は、自分のために、受けるものだ。……あなた、それを、混ぜてる」
短い、断定だった。
とぼけも、伸びも、なかった。
わたしは、その言葉の意味を、とっさに、掴めなかった。
掴めないふりを、したのかもしれない。
「――あなたに、何がわかる」
気づけば、そう言っていた。
声が、震えていた。
「人を、一人、殺した手の重さが、あなたに、わかりますか。二十年、この手で、何を落とそうとしてきたか。混ぜている、だと。……償いと罰を、きれいに分けて生きられるなら、誰も、苦しみはしない」
男は、何も、言わなかった。
糸目のまま、ただ、こちらを見ている。
責めもせず、憐れみもせず。
わたしの二十年を、まるで、天気の話でも聞くように、静かに、受け止めている。
その、凪いだ目が――なぜか、無性に、腹立たしかった。
わたしは、立ち上がった。
帰る。
この男に、話すことは、何もない。
そう思って、男の顔を、もう一度、見た。
見た瞬間に、二十年、封じてきた目が、勝手に、動いた。
――血の気の、引いた頬。
爪の、色。
細い首筋を這う、静脈の浮き方。
膝に置かれた手の、甲の、乾き。
ゆっくりと、浅い、呼吸。
この男は、笑っている。
煙草を吸っている。
けれど、この身体は、内側から、静かに、崩れかけている。
医者だった目が、それを、一瞬で、読んだ。
わたしは、思わず、言っていた。
「――あなたこそ、手遅れだ」
言ってから、しまった、と思った。
あまりに、無礼な言葉だった。
けれど、男は、動じなかった。
怯えも、しなかった。
死を告げられた人間が見せる、あの、一瞬の、目の揺れ。
それが、なかった。
「よく、視えますねぇ」
男は、また、伸びた声で言った。
それから、目を、少しだけ、開いて、わたしの、震える手を、見た。
「いい手だ」
直球の、優しさだった。
この会話の中で、たった一度の。
「治らないものは、治りませんよ」
男は、静かに続けた。
「ぼくは、とっくに、それを、知ってます。……手遅れだって、生きていくんです。罰を、受けなくても」
わたしは、その言葉から、逃げるように、扉へ向かった。
「じゃ、お帰りですかー」
背中で、間延びした声がした。
「……あー、そうだ」
来る、と思った。
この男は、何か、宿題を置く。
押しつけがましくない、けれど、断れない、小さな一つを。
「今日、帰ったら、その手をね」
「――結構です」
わたしは、遮った。
聞いてしまえば、やってしまう気がした。
やってしまえば、二十年が、崩れる気がした。
「宿題は、いりません。わたしは、償いに来ただけだ。罰でも、なんでも――わたしのことは、わたしが決めます」
男は、それ以上、何も言わなかった。
言葉を、引っ込めた。
ただ、にこにこと、笑っていた。
扉を閉めて、エレベーターに乗り、十階が遠ざかっても、わたしの手は、こすれ合っていた。
まだ、落ちない。
いつものように。
けれど、いつもと、違うことが、一つ、あった。
あの男の、目だ。
わたしは、たったいま、あの男に、「手遅れだ」と告げた。
死を、宣告した。
二十年前、あの夜のわたしが、患者に告げそこねた言葉を、今度は、正しく、告げてしまった。
なのに、あの男は、怯えなかった。
なぜ、怯えなかったのか。
なぜ、あの目は、あんなに、凪いでいたのか。
その問いだけが、こすれ合う手のあいだに、小さな棘のように、いつまでも、残っていた。
怯えなかった目のことが、しばらく残る回でした。




