第3話 命日の道順
年に一度だけ通る、決まった道順から。
命日の朝は、決まって早く目が覚める。
湯を沸かしに台所へ立ち、いつもの癖で、いちばん下の抽斗を開けた。
指が、冷たいゴム管に触れて、そして、閉めた。
今年も、捨てられなかった。
花屋で、白い花を選んだ。
名前は知らない。
白ければ、それでよかった。
電車に乗る。
向かいの席で、四十がらみの男が、しきりに胸をさすっていた。
脂汗。
呼吸が、浅い。
――既往は、と口が動きかけて、わたしは膝の上で両手を組んだ。
いけない。
あの患者は……いえ、あの方は、ただ、暑いだけかもしれない。
わたしは、もう、診てはいけない。
目を、窓の外へ逃がす。
電車を降り、坂を上る。
角の煙草屋が潰れて、コンビニに変わっても、足は、道順を覚えていた。
二十年、同じ道だ。
遺族の家の、前に着く。
門の内側で、洗濯物が、風に揺れていた。
誰かが、今日も、ここで生きている。
わたしが一人、死なせた人の、残された家族が。
表札の名を、わたしはもう、見ない。
見なくても、諳んじている。
インターホンは、見なかった。
見れば、指を伸ばしてしまう。
伸ばせば、押せない自分を、また見ることになる。
いつものように、その家の前を通り過ぎた。
そこに用などない、ただの通行人のように。
角を曲がるまで、背中で門を感じている。
曲がってしまえば、また一年、来なくていい。
来た、という事実だけが、残る。
――これで、けじめはついた。
毎年、そう思う。
門の前まで来た。
逃げはしなかった。
通り過ぎたことを、逃げたとは思わないことにしている。
そうして二十年、わたしは律儀に足踏みを続けてきた。
両手が、こすれ合っていた。
水はない。
それでも、指が、爪の間を探している。
まだ、落ちない。
その足で、家には、帰らなかった。
気づけば、神宝町の商店街まで、来ていた。
日に一度、意味もなく歩く、あの通り。
先日、路上で老人が倒れ、わたしの手が止まった、あの通りだ。
通りの向こうに、あのビルが立っている。
あの日、いちばん上の窓から、風もないのに、細い煙が一筋、まっすぐ天へ昇っていた。
今日は、煙は、見えない。
それでも、わたしの足は、そのビルの前まで来ていた。
門のインターホンひとつ押せなかった手が、なぜか、ガラスの扉を、押していた。
エントランスは、薄暗く、ひんやりとしていた。
壁に、階数の並んだインターホンの盤。
ボタンの列。
いちばん上に、名のない、番号だけのボタンが一つ。
どの階を押せばいいのかも、分からない。
ただ、いちばん上へ――十階へ、行かなければ、という気だけが、ある。
指を、盤へ伸ばす。
伸ばして、また、止まった。
わたしは、こういう男だ。
押せない。
いつも、押せない。
指が、震え出した。
押せば、この向こうで、誰かが応える。
なんと言うつもりだ、と自分に訊いた。
答えは、なかった。
二十年、誰にも言わずにきたことを、名も知らぬ相手に、この場で、どう並べる。
並べたところで、どうなる。
喉の奥に、言葉が、せり上がってきていた。
押しさえすれば、それは、勝手に出ていくだろう。
出てしまえば、たぶん、戻せない。
震える指を、もう片方の手が、包んだ。
包んだまま、こすり始める。
水はない。
それでも指は、爪の間を、探しにいく。
脈が、速かった。
気づけば、自分の手首に、指を当てていた。
数えている。
百に近い。
――頻脈、と口の中で言いかけて、わたしは、唇を、結んだ。
こんなときまで、この目は、診てしまう。
自分のことだけは、二十年、一度も、診なかったのに。
押すか、帰るか。
指は、どちらへも、動かなかった。
「――大丈夫ですよ」
声が、した。
振り返ると、女性が一人、立っていた。
四十くらいだろうか。
手に、書類の入った鞄を提げている。
午前の仕事へ向かう途中か、その帰りか。
落ち着いた、けれど、どこか懐かしむような目で、わたしの手を見ていた。
震える、その手を。
「そのボタン、押しても、大丈夫です」
その人は、静かに言った。
「わたしも、昔は、押せなかったので」
「わたしは」
わたしは、掠れた声で言った。
「わたしのしたことは……楽になって、いいものでは、ないのです」
その人は、少しだけ、困ったように笑った。
それから、いちばん上のボタンを、指でさした。
「そういうことは、上の人に、話してみてください。わたしが、決めることじゃ、ありませんから」
名は、名乗らなかった。
開いたエレベーターへ乗り込み、六階のボタンを押した。
鞄からのぞいた書類に、「町田行政事務サポート」とあった。
わたしは、指を、伸ばした。
今度は、止まらなかった。
いちばん上のボタンが、かちり、と沈んで、小さな灯が点った。
古いエレベーターが、軋みながら降りてくる。
扉が開く。
乗る。
「10」の数字だけが、鈍く光っていた。
扉が、閉まる。
上がっていく。
三階。
四階。
……手が、また、こすれ合おうとした。
わたしは、それを、上着のポケットへ、押し込んだ。
九階。
十階。
止まった。
扉が、開く。
薄暗い廊下の、いちばん奥に、灯りが一つ。
細く、煙草の匂いがした。
誰かが、そこに、いる。
まだ、姿は、見えない。
二十年、どの家のインターホンも押せなかった手が、いま、開いた扉の縁を、探していた。
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