第2話 大したこと、ない
会議室の、ありふれたやりとりから。
「――で、この件、どうしましょうか」
会議室の白い机の向こうで、入社二年目の後輩が、俺の返事を待っていた。
顔色が、悪い。
目の下に、隈。
ここ数日、遅くまで残っていた。
資料の締め切りは、来週の頭。
まだ間に合う。
「熱、あるんだろ」
「三十七度五分、くらいですけど」
後輩は、笑ってごまかそうとした。
「動けます」
「大したことないよ。寝てりゃ治る。明日は休んでいい。この件は俺が巻き取っとくから」
言ってから、俺の口が、止まった。
ボールペンを机に置いた、その音が、やけに大きく耳に残った。
いま、俺は、なんて言った。
大したことない。
寝てりゃ治る。
――その言葉を、俺は、一度、口にしたことがある。
二十年前。
俺が、十四のときだ。
あの朝、父は腹を押さえて、蒲団から起き上がれずにいた。
脂汗をかいて、青い顔で、それでも「平気だ」と繰り返していた。
「病院、行ったら」
母が言った。
俺は、玄関で靴を履きながら、振り返りもせずに言った。
遅刻しそうだった。
父はいつも、少しの不調を大げさに言う人だと、俺は思い込んでいた。
「大げさだよ。寝てれば治るって。父さん、いつもそうなんだから」
それだけ言って、俺は、学校へ行った。
父はその夜、ひとりで病院へ行った。
腹が痛むと言って。
そして――「軽症です、帰って大丈夫ですよ」と言われて、帰されたのだと、あとで聞いた。
翌朝、父は、蒲団の中で冷たくなっていた。
俺の「大げさだよ」と、医者の「軽症です」。
二つの声が、両側から、父を挟んでいた。
あれから二十年、俺は、その医者を恨むことで、どうにか、生きてきた。
あいつがちゃんと診ていれば。
あいつが「軽症」なんて言わなければ。
――そう思っているあいだだけ、あの朝、父を置いて出た自分の声を、聞かずにいられた。
医者のせいにしておけば、俺のせいでは、なくなる気がした。
「先輩?」
後輩の声で、我に返った。
俺は、たったいま、あの朝と同じ言葉を、同じ軽さで、口にしていた。
目の前の、顔色の悪い若い人間に。
「……いや」
俺は、言い直した。
「悪い。熱があるなら、ちゃんと病院、行けよ。明日じゃなくて、今日、帰りに」
後輩は、きょとんとした顔をした。
俺が、なぜ急にそんなことを言うのか、分からなかっただろう。
俺にも、うまく説明はできなかった。
その日は、定時で上がった。
コンビニの袋を提げて、一人で住んでいるアパートへ帰る。
電気を点けて、テレビも点けて、音だけ流しておく。
静かだと、余計なことを考える。
母から、着信が二つ、入っていた。
折り返さなかった。
かけ直せば、たぶん、父の話になる。
命日が近い。
母は、あの朝のことを、知らない。
俺が玄関で何を言って出たのかを、俺は、二十年、誰にも言っていない。
母にも、別れた相手にも、会社の誰にも。
湯に浸かって、目を閉じた。
閉じると、後輩の顔が浮かんだ。
三十七度五分、と言った、あの顔が。
その週末が、父の命日だった。
毎年、墓に手を合わせて、それで終わりにしてきた。
恨む相手の顔も名前も、俺は知らない。
二十年前の、夜間の当直医。
それだけだ。
病院との話し合いは、示談の紙一枚で終わった。
父の身に何が起きたのか、家族には、ほとんど何も残されなかった。
その帰り、俺は、いつもは乗り換えるだけの駅で、なんとなく、改札を出た。
神宝町、という古い町だった。
商店街の外れに、古い雑居ビルが一棟、立っていた。
レンガの目地が黒ずんで、看板の文字は、もう読めない。
その入口で、社員証をカードキーの読み取り機にかざそうとしていた女の人と、目が合った。
「どうか、しました?」
俺が、ビルの上のほうを、ぼんやり見上げていたからだろう。
「いえ」
俺は言った。
「その……ここ、なにか、あるんですか」
女の人は、少し困ったように笑って、いちばん上の階を、指でさした。
「十階に、相談屋さんが。……もし、下ろしたいものが、あるなら」
それから、鞄から手帳を出し、一枚を破って、何かを書き、俺に渡した。
十階。
呼び鈴は、いちばん上のボタン。
定規で引いたような、揃った字だった。
書き慣れた人の字だ、と思った。
下ろしたいもの。
俺は、二十年、下ろせなかったものの重さを、そのとき、はっきりと、背中に感じた。
「……いえ」
俺は、言った。
「今日は、いいです」
女の人は、それ以上、勧めなかった。
少し困ったように笑って、会釈をして、ビルの中へ入っていった。
俺は、駅へ戻った。
戻りながら、いま自分が何を断ったのかを、考えていた。
断れば、また二十年、同じところに立っていられる。
それを知っていて、俺は、断った。
もらった紙は、捨てなかった。
ありがとうございます。




