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燃えカスの守り人  作者: K3/KASANE
二十年、手を洗い続けた

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第1話 洗っても、落ちない

 この物語は、水道のないところで手を洗い続ける、ある老人の話です。


 水道は、ない。


 それなのに、わたしの両手はこすり合っている。


 右の甲を左の指がなぞり、指を組み替えて、また逆をなぞる。


 蛇口も、石鹸も、湯気も、何ひとつないところで、わたしはいつまでも手を洗っている。


 洗っても、何も落ちない。


 落ちるものなど、初めから付いていないのだから。


 台所の抽斗の奥に、古い聴診器が一つ、しまってある。


 二十年、一度も使っていない。


 それでも、捨てられずにいる。


 その日も、わたしは駅前の商店街を歩いていた。


 用があるわけではない。


 日に一度、人の多いところをこうして歩く。


 それだけが、わたしの一日にかろうじて開いている、窓のようなものだった。


 行き交う人を、目が勝手に読んでしまう。


 あの若い男は顔色が悪い、眠っていない。


 前から来る老人は――唇の色が、薄い。


 既往は、と口が動きかけて、わたしは唇を結ぶ。


 いけない。


 もう、診てはいけない。


 わたしは医者ではない。


 二十年前に、自分でやめた。


 両手を上着のポケットへ押し込んで、指を丸める。


 その老人が、傾いだ。


 段差につまずいたように、半歩、前へ。


 次の一歩が、出ない。


 膝から崩れ、買い物袋が地面を打って、ネギが数本、アスファルトに転がった。


 人の輪が、割れるように空く。


「ちょっと、大丈夫ですか」


 駆け寄った若い女性の声が、裏返る。


 「誰か、救急車! ねえ!」


 老人はうつ伏せのまま、喉の奥で、ひゅう、と細い音を立てている。


 ――軽症です。


 帰って、大丈夫ですよ。


 どこからか、自分の声が鳴った。


 にこやかで、落ち着いていて、迷いのない声。


 二十年前の、あの夜の、わたしの声だ。


 翌朝、その声は、人を一人、殺していた。


 気づくと、わたしの手はポケットを出て、膝が地面へ向かっていた。


 脈を、気道を――言葉が指の先まで満ちる。


 この患者は、と思って、違う、と言い直す。


 わたしにはもう、患者などいない。


 手が、止まった。


 地面に触れる、その一寸手前で。


「……わたしは、もう、医者じゃない」


 誰にも、聞こえなかった。


 サイレンが迫り、救急隊が老人を担架に乗せた。


 若い隊員が口もとに器具を当て、もう一人が手首をとる。


 的確だった。


 わたしが手を出す隙は、どこにもない。


 あってはならない。


 赤い光が、遠ざかっていく。


 立ち上がると、膝が笑った。


 走ってもいないのに、息が上がっている。


 人ひとりの生き死にを間近にした身体は、正直だ。


 今も、そこだけは変わらない。


 わたしは、路地の陰に入った。


 両手が、こすれ合っている。


 右の甲を、左の指が。


 水はない。


 それでも手は動く。


 爪の間を、指の股を、手首の内側を。


 石鹸のない指が、ありもしない汚れを、いつまでも探している。


 まだ、落ちない。


 顔を上げると、通りの向こうに、赤レンガの古い雑居ビルが一棟、立っていた。


 ひび割れた外壁、色の褪せた看板。


 何気なく、いちばん上まで目でなぞる。


 十階。


 その窓のあたりから、細い煙が一筋、まっすぐに昇っていた。


 風はぬるく流れているのに、その一筋だけが、揺れずに、天へ向かって立っている。


 通りを行く誰ひとり、足を止めない。


 空を見上げる者もいない。


 わたしだけが、その一筋から、目を離せずにいた。


 行かなければ、と思った。


 なぜそう思ったのかは、分からない。


 それでも足は、もう、そちらへ向いていた。


 お読みいただき、ありがとうございます。


 煙の見えるほうへ、足が向いてしまう回でした。

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