第7話 最後の給与明細
最後の給与明細を、印刷
美紀は、印刷ボタンを押した。
プリンターが動きだす。
一枚、二枚。
上端の名前を確かめながら、束を数える。
大野、桑野、寺田……そして、いちばん最後に、相原美紀。
毎月見てきた自分の名前だった。
それでも、会社の最後の処理に並んだその一枚は、初めて見るもののようだった。
二十枚。
美紀は、もう一度めくった。
十九人と、自分。
最後の給与を受け取る二十人が、ちょうど揃っている。
あの、二十枚目が――佐藤士恩の一枚が、どこにもなかった。
支給額がゼロで、勤務日数だけが増え続けた一枚。
十九人を選ぶたび、二十枚目として現れたものが、今日はない。
理屈は、分からないままだ。
ただ、自分を外した場所へ、あの男が立っていたのだとしたら。
自分を戻した今は、もう、代わりに数えられなくていい。
帰っていい。
そういうことのような気がした。
美紀は、自分の離職票を作った。
失業給付の手続きを調べ、ハローワークへ電話をかけ、必要な書類を、自分のために並べた。
今度は、後回しにしなかった。
みんなの分が済んでから、ではなく、みんなと同じ列のなかに、自分の順番を、きちんと置いた。
それだけのことが、できずにいた。
たった一枚の紙を、自分のために作る。
それが、こんなにも遅くなってしまった。
ハローワークの職員は、電話口で、丁寧に手続きを教えてくれた。
離職票が届いたら、こちらへお持ちください、と。
持ってくる相手が、自分自身であること。
窓口で順番の札を取り、自分の名前が呼ばれるのを待つこと。
そのどれもが、美紀には、ひどく新鮮に思えた。
人を手続きの列へ送り出すばかりだった人間が、初めて、自分でその列に並ぶ。
少し、遅すぎたかもしれない。
それでも、並ばないよりは、ずっとよかった。
事務所を出る前に、山辺社長へ、鍵を返した。
社長は、その鍵を両手で受け取って、ずいぶん長いあいだ、何も言わなかった。
「相原さんには、ほんとうに」と言いかけて、あとは、言葉にならなかった。
目のふちが、赤くなっていた。
美紀は、いいんです、と静かに答えた。
ほんとうに、いいんです、と。
埃と油の匂いのしみた事務所に、深く頭を下げて、彼女は外へ出た。
もう、この扉を開けることはない。
外へ出ると、冷たい空気が頬を刺した。
振り返ると、事務所の窓の明かりは、もう消えている。
いちばん最後まで点いていた、あの明かりが。
美紀は、しばらくそこに立って、暗くなった窓を見上げていた。
寂しさは、思ったよりも、ずっと静かだった。
やり残したことは、もう、何もない。
十九人ぶんの後始末を終え、二十人目の自分の分も、ちゃんと作った。
空っぽになった手のひらに、その実感だけが、じんわりと残っていた。
その帰り、美紀は、神宝町に寄った。
煉瓦のビルの、十階。
灰色の鉄の扉は、また、鍵がかかっていなかった。
ノックをして、入る。
男は、この前と同じ椅子に、同じように深くもたれていた。
糸目。
黒いスーツ。
灰のように白い顔。
生きているのが、少しばかり面倒そうな、いつもの姿で。
あの日、動けなかったという気配は、もう、どこにもなかった。
何ごともなかったように、また、そこに座っている。
「あー、この前の、相原さんー」
と男は言った。
「給料、出ました?」
「おかげさまで」
と美紀は答えた。
「自分の分も、作りました」
男は「へえー」とだけ言った。
よかったですね、とも、えらいですね、とも言わなかった。
褒めもしない。
それでいい、と美紀は思った。
褒められるために、作ったのではない。
彼女は、鞄から一枚の紙を出して、机の、空いた隅に置いた。
請求書だった。
宛名の欄には、この前、受付が呼んでいた名を借りて、佐藤様、とだけ書いた。
品目は、相談料。
金額の欄には、はっきりと、数字が入れてある。
ゼロではない、ちゃんとした額が。
二十年、一円もごまかさなかった指で、美紀は、その額を書いた。
男は、薄目で、それを覗いた。
しばらく、なんの表情もなかった。
「……これは、何ですー?」
「今回の相談料です」
と美紀は言った。
「お手数を、おかけしましたので。ゼロ円では、処理できません」
男は、心底めんどくさそうに、細い眉を、ほんの少しだけ寄せた。
机の上の、横線で消された請求書の山と、美紀が置いた一枚とを、見比べているようだった。
それから、ふう、と長く息を吐いて、また、椅子に沈んだ。
「……あなたねー」
と、けだるく、つぶやいた。
「めんどくさい人ですねぇ」
だが、その紙を、丸めもしなければ、捨てもしなかった。
机の隅の、いちばん手前に、そっと置いた。
ほかの、消された請求書とは、別のところに。
ゼロにされずに残った、たった一枚として。
捨てなかった。
横線も引かなかった。
机の、いちばん手前に置いた。
美紀は、一礼して、部屋を出た。
糸のような目が、その背中を見送っていたかどうかは、分からない。
外は、もう、すっかり暗かった。
会社は、なくなる。
未払いの給料が、全部戻ってくる保証はない。
次の仕事が見つかる保証も、どこにもない。
手のなかに残っているのは、ただ一枚――自分の名前が印字された、最後の給与明細だけだった。
金額も、明日も約束してくれない紙だ。
それでも、最後の処理から外していた相原美紀の名が、みんなと同じ場所に印字されていた。
歩きだしながら、美紀は鞄のなかの一枚を、手のひらで確かめた。
十九人分の仕事を、終えた。
二十人目を、やっと、帰らせることが、できた。
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