第6話 自分の一枚
最後に残ったのは、ずっと後回しにしてきた一枚
週が明けて、会社の残務にも、ようやく終わりが見えてきた。
十九人分の給料は、少しずつ、それぞれの口座へ振り込まれていった。
全額ではない。
会社に残った金では、どうしても足りなかった。
いくらかは未払いのまま残り、あとで支払うという約束の紙に変わった。
約束が守られる保証は、どこにもない。
会社そのものが、もうすぐ消えてなくなるのだから。
それでも美紀は、一円の単位まで正しい金額を、それぞれの明細に刻んだ。
正しく記しておけば、いつか払われる日が来たときに、間違いなく、正しい額が渡る。
彼女にできるのは、そこまでだった。
数字を正しくしておくこと。
せめて、それだけは。
最後に残ったのは、印刷対象から外した自分の処理だった。
美紀は給与ソフトを開いた。
社員一覧には、以前から相原美紀の名前がある。
毎月の基本給も、控除額も入っている。
だが、最後の給与処理を選ぶ欄だけ、チェックが外れていた。
自分の未払いの残業代を、月ごとに拾い直した。
定時のあとに、一人だけ残って打ち続けた、あの何百時間。
会社が忙しかった年も、暇になった年も、事務所の明かりは、最後まで美紀の机だけが点いていた。
決算の月は、終電を逃したことも、一度や二度ではない。
それを、一時間も、つけていなかった。
会社が苦しい。
総務が先に請求しては、示しがつかない。
みんなも忙しい。
理由なら、いくつも作れた。
本当は、自分がどれだけ報われずに働いてきたか、数字で見るのが怖かったのだ。
使わなかった有給休暇。
母が入院した年も申請しなかった残業。
会社のために立て替えた切手代、菓子折り、忘年会の不足分。
他人の一円をごまかさなかった指で、自分の数字を拾い直した。
打ち込みながら、手が何度も止まった。
計算しても、会社に払う金は残っていないかもしれない。
約束の紙が一枚増えるだけかもしれない。
それでも、支払われないことと、働かなかったことは違う。
あの相談屋は、答えを教えなかった。
ただ、一つだけ問いを置いた。
あなたの、最後の給与明細は、どこです。
冷たいコーヒーと、薬の空き袋が浮かんだ。
人の心配ばかりして、自分のことは後回しで――受付の女性の声も。
美紀は、自分の欄へチェックを入れた。
相原美紀。
すでにある自分の名前が、印刷対象へ加わった。
保存すると、小さな確認音が鳴った。
指先が、少し震えていた。
画面の右上に、印刷対象人数が表示されている。
二十、に変わっていた。
プリンターは、静かに待っている。
美紀は、印刷ボタンの上で手を止めた。
この一枚を刷れば、自分もみんなと同じ列に並ぶ。
美紀は、しばらくのあいだ、そのまま、動かなかった。
次で最終話です。




